小説☆アラアル編リクエスト---ピアノ

  (ピアノ…?)

アルベルは我が家を見上げ、微かに聞こえるピアノの音に耳を傾けた。どうやら家の中で鳴っているらしい。うちにはピアノなどないはずだが。不審に思いながら玄関を開けるとその音が少し大きくなった。二階からだ。その音に吸い寄せられるように二階に上がって、アルベルは驚いた。廊下の奥に見慣れないドアがあったからだ。そこに置いてあったはずの本棚は中身が空っぽになり、脇にどけられている。アランの仕業だ。

アランはこの家を住み良い家にしようと、あーでもない、こーでもないと、暇さえあればこうして模様替えしている。完璧主義であるが故に、中々その位置は定まらず、折角模様替えしても、しばらくすると気に入らない所がでてくるのか、また位置を変えてしまう。

アルベルは最初こそ戸惑ったものの、アランがそうしながらとても楽しそうなのを見て諦め、今では「いちいち俺の許可を取らなくていい。お前の好きにしろ。」と、気の済むようにさせている。その模様替えの最中に、このドアを見つけたのだろう。廊下に放置されたままの箒とバケツを避けて、アルベルはそっとノブを捻った。

音を立てぬように静かに開けたつもりだったが、長い間閉じられたままだった蝶番がキィと音を立てた。その途端、ピアノがぴたりと止まった。

  「!」

古いアップライトのピアノの前にアランが座っていた。ハッと顔を上げ、そこにアルベルの姿を見つけるや、慌てて立ち上がった。

  「申し訳ありません!勝手に入ってしまって…!」

急いでピアノのフタをしめ、床に落ちていた布巾を拾い上げた。それでピアノを拭いたのだろう。埃で真っ黒になっていた。

  「本棚を動かしていたら、偶然、扉を見つけまして。勝手に入ってはいけないとは思ったのですが、ピアノが埃だらけになっているのを見たら、つい…。」

一生懸命言い訳するアラン。どうやらアルベルが怒っていると思っているらしい。ただ黙ってアランの話を聞いているだけなのに。

  「いや…。俺もこんなところに部屋があったとは知らなかった。」

  「え?」

  「ガキの頃、俺があまりにも物を壊すってんで、大切な物は隠し部屋に隠したと親父が言っていた。俺は躍起になって探したが、結局見つからず、それきり忘れていた。」

アルベルは埃臭い部屋の中を見渡した。窓も何もない、ただの物置だ。棚にいろんなものが積み込まれている。

  「案外、いいお宝が眠ってるかもしれんな。売れそうなやつは売っ払うか。」

  「そんな…!」

アルベルの父・グラオが大切にしていた物を売るなど、そんな事は出来ないと、アランは首を横に振った。アルベルは冗談だと軽く笑って、ピアノのフタを開けた。指で鍵盤を押してみる。長い間放置されていたせいか、少しくぐもった音だった。

  「恐らく、これは母のだ。」

  「!」

アランは申し訳なさそうに目を伏せた。母の形見。そんな大事な物を、勝手に触ってしまった自分を責めているのだ。アルベルは、アランを安心させるように、

  「埃をかぶったままでいるより、弾いてやった方が母が喜ぶ。」

と、ちらと微笑んで見せた。そして、「座れ。」とアランをピアノの前に座らせた。

  「さっきのを弾いてみろ。」

  「はい…。」

アルベルに促され、アランは躊躇いがちに鍵盤に指を置いた。だが、軽く息を吸った次の瞬間、一気に音楽の世界に入り込んだ。すらりと長い指が、鍵盤の上を滑らかに走る。ところどころ調律が狂っているが、それでも透き通るような音色が心に響く。心を揺さぶる甘く切ないメロディー。ピアノの音がこんなにも心地よいものだとは知らなかった。アランの奏でる純粋で美しい音楽に引き込まれる内に、やがて曲が静かに終わり、最後の余韻がとけるように消えていくのを名残惜しく聞き終えた。

  「お前は何でも出来るんだな。」

アルベルが心底感心すると、アランは俯いて首を小さく横に振った。

  「いえ、そういうわけでは…。子どもの頃に、強制的にさせられていただけです。」



ここはフォルテで。ピアニッシモからクレッシェンド…そして3拍目からデクレッシェンド。ここから急速にアッチェレランド…。

  (苦しい…。)

その曲の持つの美しい世界が不自然に歪められ、ぶつ切りにされ、自己陶酔の果ての無残な姿となって死んでいく。それでも教師の指示通りに弾き続ける。間違える事は勿論、自分の思い通りに弾く事など許されない。

  (ここはもっと自然な波のように弾きたいのに…。)

しかし指は、悪酔いしそうなアゴーギクを忠実に守っている。自分の手でこの曲を殺しているような気がして、泣きたい気持ちになる。

全然美しくない。こんな音楽は嫌いだ。

それを心酔するように聴き入っている教師。アランは弾きながら、ピアノに映る教師を睨みつけた。

  (早く終われ…!)

そう呪文のように唱えながら、やっと曲が終わると、アランはほっと安堵の溜息を付いた。

  「素晴らしい!」

教師が、アランを利用して体現させた自分の音楽を褒め称える。

  (これのどこが素晴らしいのだ。)

冷めた心で罵りつつ、しかし表面上は微笑みを浮かべる自分。

何もかもが嫌で仕方が無かった。



  「その内、心に蓋をする事を覚えて…。何も感じなくなった代わりに、自分がどう弾きたいのか、わからなくなっていました。もうピアノは弾けない、二度と弾かないと思っていたのですが、このピアノを見たら急に弾いてみたくなって…。」

アランはポロロンと音を鳴らし、アルベルをじっと見上げた。

  「アルベル様の為にだったら、弾けそうな気がしたのです。」

アランのまっすぐな瞳。アルベルの胸に温かい感情が広がった。

  (『愛しい』ってのは、こういう事か…。)



  『愛しいアルベル。』

そう言って、優しく頭を撫でてくれた母。あの時自分は最高に幸せだったのを覚えている。そして、母もこんな幸せな気持ちだったに違いない。アルベルは、母がしてくれていたように、アランの頭を撫でてみた。

一瞬驚いた表情が、次の瞬間には嬉しそうに輝いた。

微かだが、アルベルにしては精一杯、それに微笑みを返し、すっと背を向けた。この照れくさい気持ちを悟られたくない。ドアに向かいながら肩越しに言う。

  「そのピアノは好きに使え。」

  「有難うございます…!」

アルベルは一瞬振り返り、アランの笑顔を目に焼き付けてから部屋を出た。



  『あなたの笑顔が、私の一番の宝物。』

母は幸せそうにそう言った。

自分は母のように口に出しては言えない。けれど、せめて心の中でそっとつぶやいた。

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■あとがき■
アランは美的感覚が鬼のように鋭い上に完ぺき主義。ドビュッシーの「月の光」とか、ベートーベンの「悲愴」二楽章とか、アランはそういう綺麗で静かな曲を好みそう。作曲するとしたら、西村由紀江系の曲。弾き方は淡々と、でも微かに微笑を浮かべて、曲を愛しむように弾いてそう。間違っても、体を揺らしまくって髪振り乱して…なんてのは無い。