白を基調とした清楚なドレスに身を包んだクレアは、ドキドキする胸を押さえて、必死で気持ちを鎮めようとしていた。しかし、舞踏会の時間が迫るにつれて動悸はますます激しくなっていく。
(クレア、しっかりして!)
クレアは心の中で不甲斐ない自分を叱りつけると、大きく息を吸った。いっぱいまで空気を吸い込んだら、今度は息を最後まで吐き切る。そうして深呼吸を繰り返す内、段々気持ちが静まってきた。鏡をのぞいて、髪型や服装が乱れていないか最終チェック。口紅を塗りなおし、背筋を伸ばして、顎を引き、口角を微かに上げる。
(大丈夫。やれるわ。)
完璧な笑顔を作った鏡の中の自分にそう言い聞かせて部屋を出た。
クレアは時間より少し早めに会場の入り口に立った。アランはまだ来ていなかった。目隠しとして入り口に掛けられているカーテンの向こうから、ざわざわと大勢の人の気配がする。部下の報告によると、立ち見が出るほどの満席らしい。反対側の入り口の奥には父とハロルドが、ここから見て右手側の入り口にはネルとアルベルが、同じように待機しているはずだ。
今年の冬は例年より暖かく、この祭りの三日間、殆ど雪が降らなかったのは本当に奇跡的な事なのだという。天候をつかさどる神も、この二国の友和を歓迎しているのかも知れない。ただ、暖かいといっても冬だ。肩が剥き出しのこのドレスでは寒すぎるのだが、心が高揚しているせいか、それ程寒さを感じない。それに、壁や床に書かれた火の紋章が、寒さを和らげてくれていた。クレアは羽織っていたショールを部下に預けた。
「寒くないですか?」
心配そうに聞いてくる部下に、「ええ、大丈夫。」と優しく微笑んだ時、背後から複数の足音が聞こえてきた。その中に見つけた静かな足音。アランに違いない。そう思った瞬間、クレアの心臓が早鐘のように鳴りだした。
(早く振り返らなくちゃ!そして、挨拶して!ただそれだけのことでしょう?)
なのに、何故かアランの方を振り向けない。でも、これ以上振り向かずにいたら変に思われる。
(早くッ!!)
クレアはグッと握りこんだ手に爪を食い込ませ、その痛みをバネにしながら、渾身の気力を振り絞ってアランの方を振り向いた。アランの目を見ないようにしながら、軽く会釈する。だが、アランは会釈を返さなかった。その事に驚いて目を上げると、アランと視線がぶつかった。アランは何やら思いつめたような目でこちらを見ていた。クレアはカアッと顔に血が上るのを感じた。
「あ…の…何か…?」
するとアランは我に返ったのか、
「いえ…。」
すっと目を伏せ、そのまま挨拶もなく、黙ってクレアの横に立った。
(何…?)
アランは何か言いたそうだった。何を言おうとしたのか知りたい。しかし、アランの方を振り向く勇気がどうしてもでない。
待機完了の合図を受けた司会が、拡声器を使って客席に向かって賑やかにしゃべり始めた。だが、クレアには何一つ耳に入らなかった。感じていたのは隣にいるアランの気配だけ。ただそこにいるだけで、こんなにも人の心を揺るがしてしまう。
(罪作りな人…。)
アランがすっと息を吸い込んだ音がクレアの耳に入った。この喧騒の中で、こんな微かな息遣いに気付いてしまうなんて。いかにアランの方へ意識が行ってしまっているかがわかる。アランがクレアの方を見ずに口を開いた。
「アルベル様との結婚のお話ですが…。」
「えっ!?」
クレアは驚いてアランを見上げた。白い衣装によって、アランの美貌が一段と引き立っている。なんて美しい人なのだろう。思わず見とれていると、アランがクレアを振り向いた。これ以上ないくらい真剣な目をして。
「もし、あなたがアルベル様と結婚するつもりなら―――」
何故、そんな事を言い出すのか。それを考える間もなく、クレアは急いで否定していた。
「あれは父が勝手に言いだした事です!私は父の言いなりになるつもりはありません!」
アランはその真意を量るようにじっとクレアを見下ろした。純粋なアメジストの瞳。その美しい宝石の中に閉じ込められてしまいそうだ。
「さあ!王子様とお姫様の登場だ!」
司会の声が聞こえると、そばに立っていた部下が、目の前のカーテンを開けた。入場のファンファーレがうるさい程に鳴り響く。
アランが黙って手を差し出した。クレアは乱れた心を落ち着かせる間もなく、ドキドキしながらそこにそっと手を載せた。
ワーッという歓声の中、クレアはアランにエスコートされながら中央へと進み出た。アランのことに気を取られるあまり、危うく『にこやかに観衆に手を振る』というのを忘れるところだった。
「きゃあああ〜vvアラン様〜vv」
「クレア様、素敵〜vv」
自分の方を向いて欲しいと、観客が興奮気味に手を振り返している。だけど、何一つクレアの意識には入ってこない。意識にあるのは、ただアランのことだけ。グローブ越しにアランの手のぬくもりを感じる気がする。アランが自分の手を握ってくれている。それだけで嬉しい。
各方面に手を振り終えると、アランがつとクレアの手を引いた。それに答えて向き合うように立った。目の前にはアランの胸。アランの顔を見ることはできない。こんなに間近で見てしまって、もし目が合ってしまったら。もう自分を保てない。
ホールド。優しく腰に手を回された。胸がこれ以上ないくらい激しく動悸している。大舞台での緊張のせいだと言えば誤魔化せるだろうか。
音楽が鳴り始めた。音楽に乗ってダンスを踊り始める。
観客は理想の美男美女の優雅なダンスに、ウットリと見惚れている。
アランの優雅で軽やかなステップに心が揺れる。このままアランに身を投げ出したい。息が止まるほどに抱きしめられたい。だが、それは決して叶わぬ夢…。
(このまま時が止まってくれればいいのに…。)
時々微かにふわりと香るアランの香水が、クレアを恋の世界へといざなう。現実を忘れ、時間を忘れ、クレアは夢中で踊っていた。だが、
ズンチャカズンチャカ♪
と、音楽がドタドタとコミカルな調べに変わった途端、アランの手がすっとクレアから離れた。はっと夢心地から覚めたクレアは、急いで打ち合わせどおり会場の端へと移動した。
ハロルド王子とアドレー姫の登場だ。ハロルドはアドレーに引きずられながら登場してきた。
アドレーの女装姿だけで会場はもう大爆笑だったが、更にダンスで会場は盛り上がった。屈強で大柄なハロルドがアドレーに軽々と持ち上げられては振り回される様に、観客は手を叩いて喜んだ。
クレアはそれを観ているふりで笑顔を作りつつも、しかし到底笑う気持ちにはなれなかった。
本当にあっという間に、そしてあまりにもあっさりと終わってしまったアランとのダンス。あんなにドキドキして心待ちにしていたのに、なのに、もうお終い。そして、アランの手の放し方に優しさが感じられなかったのは気のせいではないと思う。アランは自分となど踊りたくなかったに違いない。
(それはわかってた事でしょう?恋人がいらっしゃるんだから、当然よ…)
感情の渦に飲まれてしまいそうになる心を、理性でもって必死に立て直す。さっきのアランの思いつめたような目を思い出す。クレアは目の端で、隣にいるアランの様子を探った。目の前のコミカルな光景を前にしても、笑っている様子はなかった。
『もし、あなたがアルベル様と結婚するつもりなら―――』
(その続きは何を言おうとしたの?)
あの時、とっさに遮ってしまった事が悔やまれる。そこへ、ハロルドが息を切らせてクレアの前にやってきて一本の赤い薔薇を差し出した。そして呼吸を整え、一息に言った。
「今日は一段とお美しい。どうか私と踊ってください。」
クレアはきょとんとハロルドを見上げた。ここで花を差し出すなんて、台本にはなかったはず。だが、彼の盛大に上気した顔を見てやっと気付いた。カレルが何故、ハロルドにあてつけるように自分に話題をふっていたのか。赤い薔薇の花言葉は『あなたを愛しています。』。我ながら己の鈍さに呆れたが、同時に改めて痛感した。思わぬ相手から好意を寄せられても、ただ戸惑うだけなのだ、と。アランもそうに違いない。一応の礼儀として花を受け取るとハロルドは嬉しそうに笑った。
『期待させるだけさせといて、その挙句、だめでした、ごめんなさいとでもいうつもりか?』
突然脳裏に蘇ったアルベルの声。花を握った手がギクリと震えた。これは受け取るべきではなかったのかもしれない。ハロルドの気持ちに答えることは出来ないのだから。
(私はまた同じ事を繰り返すの…?)
「乱暴なアドレー姫に辟易していたハロルド王子は、クレア姫に一目惚れしてしまいました。そして、クレア姫にダンスを申し込みました。と、そこへ!」
きゃああぁ〜〜ッvv
入り口に近い客席から黄色い声が上がり、それが津波のように怒涛のうねりとなって大きく広がっていった。それに負けないよう、司会も声を張り上げる。
「さあッ!お待ちかねッ!ネル王子の登場です!」
男装したネルが、同じように男装した部下とともに、マントを翻して颯爽と登場してきた。漆黒の幹部らが女装することになったと知ったネルの部下達が、それなら自分達は男装すると申し出たのだ。ここに来るまでネルは何度もため息をついていたが、一旦腹をくくると流石。完全に王子になりきって、ファン達に爽やかに手を振った。
「ネル様ーーッ!!好きーーッ!!」
「超愛してるーーッ!!」
ファン達の絶叫がそこここからあがる。大半が女だ。「ネル様v命」のハチマキを締めた者や、中には髪型から服装まで完全に『ネル』になりきっている者までいる。
「ネル王子はアルベル姫と暮らしていましたが、姫の口の悪さにぶちきれ、他にいい姫はいないか、旅に出ていたのでした。そして、クレア姫を一目見るなり、これぞ理想の姫だと、ダンスを申し込みました。」
ナレーションに合わせて、ネルはクレアの前に立つと、ハロルドと同じように手を差し出しながら、この状況をちらと呆れた風に笑ってみせた。クレアも微笑んでそれに答える。
(まったく、勘弁して欲しいよ…。)
(でも、とても似合っているわ。)
髪をオールバックにして男装した姿は、惚れ惚れするほど美しかった。これで、ファンが一気に倍増したことだろう。
「ここでクレア姫は思いました。『アラン王子も良いけれど、ちょっと遊んでみようかしら。ハロルド王子、ネル王子、どちらの王子も素敵だわv』さあ、どちらを選ぶかクレア姫!」
台本ではここでネルの手を取って踊り出すことになっている。クレアは考えて、ハロルドから貰った薔薇の花をネルの胸ポケットに差し込んだ。
(ごめんなさい…。)
ハロルドは傷ついたに違いない。でも仕方がない。仕方が…。
「おーっとクレア姫、迷うことなくネル王子を選びました!そこへっ!ネル王子を追いかけてきたアルベル姫の登場です!」
アルベルの名が出た途端、
会場にざわめきが走った。