ハロルドは廊下を俯いて歩きながら溜息を付いた。
(脈なし…か。)
薔薇を受け取った時の彼女の表情で分かった。わかっている。自分にはウォルターほどの器も、アランのような華も、アルベルのように他に誇れるほどの強さも何もない。風雷の中では次期団長候補などと言われているが、所詮は井の中の蛙。自分より優れた人間はいくらでもいる。そんな平々凡々な人間が、シーハーツ女王の片腕たる彼女とつりあう筈がないのだ。結局あの薔薇は彼女の友人のものになった。
(あんな公衆の面前で迷惑だったに違いない。)
突然降ってわいたクレアとアルベルの結婚の話に、ハロルドは焦った。
『悔しけりゃ俺を倒してみろ。まぁ貴様には一生無理だろうがな。』
忘れもしない。アルベルに言われた言葉。あんな不遜な人間と結婚したら、彼女が不幸になってしまう。真剣に思い悩み、後先考えずにとった行動があれだった。考えてみれば、花一本で何かが変わるわけでもない。我ながら馬鹿だと思う。それでもクレアは嫌な顔一つせず受け取ってくれた。その優しさにますます心惹かれる。だからこそ、なんとしてでもクレアを守らねばならないと思った。
(たとえ私に望みがないにしても、せめて他の男と…。)
ハロルドは立ち止まった。
(他の男…か。そう思い切るのはなかなか難しい…。)
己の未練がましさに苦笑する。
(そうだな…。お相手がアラン団長ならば諦めはつくかもしれない。)
二人はまさに理想のカップルだ。
(きっと彼女もアラン団長の事が…。)
しかし、思えばそんな素振りを見たことがなかった。アランと話している時も、自分と話している時も、いつも変わらずあの優しい笑みを絶やさぬクレア。さり気ない立ち居振る舞いにも気品が漂う。
『うふふっ!』
そんな彼女が少女のようにコロコロと笑ったのは…
『もうっ!おかしなことばっかり言わないで下さい!』
『えー?俺、大真面目なんだけど?』
『本当ですか?』
『ホントホント♪』
『まあ、調子のいいこと!』
カレルに親しげに話しかけるのは、単なる気安さからだと思って気にも掛けていなかったが…。その時、ハロルドの脳裏に、カレルの胸ポケットにある星のペンが過ぎった。
(まっ、まさか…!?いやいや、まさか!…だが、しかし…。)
折れたペンの代りとしてプレゼントしただけ。それを鵜呑みにしてよかったのか。女心はとかく複雑怪奇で予測不能…。
(しかし、まさか、あんなヘラヘラした男を…なんてことは…)
兵学校出の叩き上げの人間に、士官学校で常に上位にいた自分が負けるわけが…
『あなたのご意見は?』
クレアは誰よりもまずカレルに意見を求める。きっと良い考えを出してくれる。そんな期待に満ちた彼女の横顔。そして、カレルはいつもその期待以上の答えを出す。
確かにあの男は頭がいい。自分よりも遥かに。
「くそっ!」
劣等感を振り払うように勢いよく角を曲がった拍子に誰かとぶつかった。ハロルドの屈強な体に弾かれ、相手は床に倒れ込んだ。
(女性!?)
ハロルドは急いで跪き、相手を抱きあげた。
「失敬ッ!大丈夫ですか!?」
女性は強張った表情で自分をハロルドを見上げた。脅えるように微かに震えるガラスの瞳に思わず見惚れ、
(か…可愛…)
と思いかけて、その顔を知っていることに気付いた。
「カッ…カレル・シューイン!?」
「うわっ!」
ハロルドが急に手を離した為に、カレルは地面に落下した。
「いッてェー!」
「あッ…失け…いや…その……」
「勝手に抱きかかえといて、いきなり放り出すなんて、そりゃないでしょ!?」
カレルは当然の文句を言った。見た目の可愛らしさに惑わされ、ハロルドは完全にパニック状態に陥った。
(ほっ、本当にカレル・シューインか?似ているだけかもしれん。ひょっとして妹かなにか…。だとしたら手を放してしまった無礼をわびなければ…いや、まてまて!声はカレル・シューインであるからして、そもそも男の声じゃないか!)
「あー、畜生、今のでマメが破れたな…。ったく、このヒールって奴は何とかなんねーかな…。」
カレルは足からヒールをとろうと、胡坐をかいた。その拍子にハロルドの目の前で太ももがむき出しになった。
「は、はしたない真似はよせ!」
ハロルドは思わずバッとドレスの裾を元に戻した。カレルは一瞬きょとんしたが、すぐにニヤッとイタズラっぽい表情になった。
「あーれっ?ひょっとして、ドキドキしてるとか?」
やっと目が覚めた。この笑い顔は確かにあの憎きカレル・シューインだ。ハロルドは急いで立ち上がった。
「冗談じゃない!」
カレルは立ち上がってハロルドの顔を覗き込んできた。
「顔赤いですよ?」
「違う!」
可愛いなどと思ってしまったのは何かの間違いだ。ハロルドは乱暴にカレルを押しのけて横を通り過ぎようとした。だが、
カッとヒールの音を立てて壁につかれた足に、その行く手を遮られた。
白くて華奢な―――
ギクリと立ち止まったハロルドを見上げ、カレルは美少女気取りでニッコリと笑った。
可憐で儚げな―――
そして、やおらドレスのすそをスルリ滑らせ太ももを露にした。ハロルドの視線が、カレルの顔から足に吸い寄せられた。元々薄かったすね毛が完全に剃られてツルツルになっている。カレルはその足をストリッパーよろしく手でなぞった。カレルの細く華奢な指はまるで女のそれだった。
「この足、綺麗だって女の子に誉められたんですよ。…触ってみます?ちょっとチクチクしますけどね…って、最後まで聞けよ。」
耳まで真っ赤にして物凄い勢いで立ち去る背中を見送りながら、フンと鼻で笑った。
(っとに、分かりやすい奴だ。)
足を下ろしながら踵をかえして、こちらを見ている人影にギクリとした。そこにいたのはライマーだった。女装からいつもの格好に戻っている。
「…お前、何やってるんだ?」
いつから見られていたのか。いぶかしむ様な目で見られ、カレルは悪さしているところを見られた不良少年のように目を逸らした。
「別に。…ちょっとからかってやっただけだ。」
「…敵は作らない方がいいんじゃなかったのか?」
カレルはそれには返事をせず、
「それより…」
と、ヒールを脱いだ方の足を上げて、血の滲んだ踵をライマーに見せた。
「これ、なんとかしてくれ。」
部屋に入るや、カレルはまずドレスを脱ぎ捨てようと背中を探った。それが良く分からない。
「なあ、これ脱ぐの手伝ってくれ。」
「それくらい自分で出来るだろう?」
「こいつがどうなってんだか…。」
何とかホックを外そうと格闘するのを、ライマーは溜息を付いて手伝ってやった。
「頭も。」
するりと地面に落ちたドレスを足で拾い上げながら頭だけを差し出した。
「その前に服を着ろ。」
「服?…ああ、衣裳部屋に置きっぱなしだ。ちょっと取ってくる。」
カレルは「あー寒ぃ。」と体を手で擦りながら、パンツ一丁でドアに近づくと、躊躇いもなくガチャッと開けようとしたが、
「待てッ!」
と、血相を変えて追いかけてきたライマーによって、開きかけたドアはバン!と締められた。
「そんな格好で外に出るやつがあるか!ここはカルサアじゃないんだぞ!?」
「すぐそこだろ?ささっと行ってくれば…」
「ダメだ!」
ライマーはカバンから自分のシャツを出し、
「これを着ろ!」
と、カレルに放り投げた。カレルはそれを受け取って目の前に広げながらぼやいた。
「『着ろ』ってなぁ、お前…。…結構傷つくんだぞ。」
「何で。」
「何でって、見ろよ、この体格差。」
カレルはライマーのシャツを着てみせた。それは短めのワンピースのようになっていた。襟は今にも肩からずり落ちそうだ。ライマーは更にズボンを投げつけてきた。カレルはそれを広げると、自分の腰に当てた。ズボンの裾は地面に布の道を作った。それを見てカレルは嘆いた。
「はぁ…裾を何回も捲くらなきゃなんねぇ惨めな気持ち、お前には一生わかんねぇだろうな。第一、押さえてねぇとずり落ちるし。」
ウエストも半分以上回ってしまう。するとすぐさまベルトが飛んできた。カレルはそれをズボン共々ライマーに投げ返した。
「お前のベルトが俺の役に立つわけねーだろ!」
「とにかく、ズボンは履け!」
再び飛んできたズボンに諦めて足を入れようとして、はたと解決策を思いついた。
「なんだ。お前が取ってきてくれりゃいいんじゃねぇか。」
「足。」
「へい。」
カレルは暖炉の前に置いた椅子に座って、足だけをライマーに預けた。結局はまだライマーのシャツ姿のままだ。
服を取ってきてもらったはいいが、ズボンに血がつくので先に足の手当てをすることになったのだ。
「お前は、何で着替えたんだ?折角似合ってたのに。」
カレルは髪のピンを不器用な手付きで一つ一つ取りながら尋ねた。
「うるさい。」
薬を塗っていたライマーの手付きが少々荒っぽくなった。
「いててッ!優しくしてくれよ〜!」
実は、ライマー、散々な目に合っていた。その気のある男らに群がられ、尻やら胸やら足やらをごつい手でまさぐられた挙句、危うく唇まで奪われそうになって、早々に逃げ出してきたのだ。
「しっかし!まさかあそこで旦那が逃げ出すとは思わなかったよな。アラン隊長の顔を見た途端、ピキーンと凍りついちまって、まあv」
「そうだな。」
「旦那のあんな可愛い顔、初めて見た。」
カレルはしみじみと言った。
「まさか、あの旦那が男と恋愛するとはなぁ〜。人生ってつくづくわかんねぇもんだな。」
「そうだな。」
さっきから同じ返事ばかり。
「…興味なさそうだな。」
「…そうだな。」
ライマーは恋愛話が好きではない。恋愛は当人同士の問題であり、人がどうこう言うべきではないという考えだからだ。カレルが黙ると沈黙が降りた。
「これで少しは楽だろう。」
「ああ、サンキュ――」
礼を言って足を戻そうとして―――
(―――?)
ライマーの手が足を離すまで、少し時間が長かったような気がした。だが、ライマーはいつもの表情。何事もなかったように救急箱を片付け始めた。
またいつもの気のせいだったかもしれない。
カレルはきちんと手当てされた自分の足をじっと見下ろした。
そこにライマーの手の感触がいつまでも残っていた。