アランは大量の書類を抱えた部下を伴って自分の執務室に戻ってきた。これから今日中にこれらを片付けてしまわなければならないのだ。仕事よりもアルベルとの生活を主としているアランは、残業する気などさらさらなかった。
一刻も早く終わらせて、早く帰ってアルベルの為に美味しい食事を用意し、二人の時間をゆっくりと満喫するために、アランは歩きながら気合を入れた。
ところが、さっとドアを開けて、部屋の中に入ったとき、
「ニャー。」
思いもよらない所で猫の鳴き声を聞き、驚いて視線を落とした。
毛色が金色がかっている黒猫が、寝そべっていたソファから降りて、静かにアランに近寄ってきていた。
普通なら動物は、アランの服に染み付いた飛竜の匂いを敏感に察知して決して寄って来ようとしないのだが、この猫は怯えることなくアランの足元に座り、じっと見上げている。
「ニャー。」
部下は持っていた書類をアランの机の上に置いて猫を覗き込んだ。
「目つきの悪い猫だな。あ、足に怪我してる。キズは古いみたいだけど。」
部下は口を鳴らして猫を誘ってみたが、猫は全くそれを無視し、アランの方だけを見つめている。
「ちっちっち…。これは飼い猫じゃありませんね。一体、どこから入って来たんでしょう?」
「さあ?」
アランは、窓を少し開けたままにしていたこと思い出しながら、適当に返事をした。そして、自分の足元に座った猫を避けてさっさと机に座り、書類をめくり始めた。
「ニャーニャー。」
すると、猫がアランの足元に来て鳴き始めた。
「隊長に懐いてるんですかね?」
「さあ?大抵、動物には嫌われるのですが…。」
アランは書類にサインをしながら答えた。
「ニャーニャーニャー!」
猫の鳴き声がうるさい。さっさと仕事を終わらせて、早く家に帰りたいのに、これでは集中できない。アランはパタッとペンを置いて、サインをし終えた分の書類をまとめながら部下に命令した。
「これをどこかに捨ててきてくれませんか。」
すると、猫は突然鳴くのを止めた。あまりに急に静かになったので、アランは猫を見下ろした。猫は目をまん丸に見開いてアランを凝視していた。人間で言えば、愕然とした表情といったところだろう。
「さあ、おいで。」
部下がその横から猫に手を出そうとすると、猫の態度が豹変した。
「シャーッ!」
「うわッ!」
猫に一喝され、引っかかれるかと思った部下は慌てて手を引っ込めた。
「こいつ、凶暴だなあ…。」
そして猫は、部下が驚いている間に、ふいっと入ってきた窓から外へと出て行ってしまった。
次の日。
アーリグリフ城の自分の執務室で、アランは手で顔を被って目を瞑り、泣き出してしまいそうになるのをじっと堪えていた。
アルベルの腹心の部下であるカレル・シューインに言われた一言が、アランを絶望のどん底に突き落としていたのだ。
***
アルベルが昨日、家に帰ってこなかった。
夜遅くなっても帰る気配がなかったので、アランは心配になってカルサア修練場に行ってみた。だが、夕方には既に帰ったという。ウォルター邸にも行ってみたが、そこにもいなかった。アルベルの行きそうな場所などそうはない。それらを全てまわって、ひょっとしたらすれ違いになって、今頃家に帰り着いてるかも知れないと、家に戻っても、アルベルはいない。
アランはそれから一睡もせずにずっとアルベルの帰りを待ったが、とうとう朝になっても帰ってこなかった。
一緒に住むようになって、これまで一度もこんなことはなかったことから、これは一大事と、まだ眠っていた門番を叩起こしてウォルター邸を訪ねた。だが、
「アヤツのことだから心配する必要はないわい。以前もよく、突然消えておったわ。その内ひょっこり帰ってくるじゃろうて。」
とウォルターに心配のし過ぎだと、まともに請合ってもらえなかった。
アランは早い時間に訪問した非礼を詫びて退出し、飛竜の所に戻ってきた所で考え込んだ。
(本当に突然、山篭りでも始められたのだろうか?)
だが、アランが一緒に住んで、毎日の食事を作っているのだ。アルベルの意外と律儀な性格からして、アランに対しては一言くらいは残すだろう。
アランは目を瞑って飛竜に寄りかかった。
愛想を尽かされたのでは…という考えが、ずっと不快な重低音としてアランの心の底で鳴り続けている。アランは必死でそれに耳を塞いでいたのだが、それが次第に大きくなってきて、アランを苦しめていた。
「クウゥ…。」
飛竜は主人の悲しみを感じ取ったように、アランの頭に口をそっと当てにきた。アランは悲しみに満ちた顔を上げ、飛竜の喉をゆっくりと撫でて、気持ちを鎮めた。そして、
(やはり、何かあったのかもしれない。)
と思い直し、飛竜に跨った。
(怪我をなさって、動けない状態なのかも…!)
それだったら、こんな所で落ち込んでいる場合ではない。今はアーリグリフも春。凍死する心配はないであろうが、それでも夜になると肌寒い。
(探さなくては!)
飛竜は、アランの気持ちが前に進んだのを感じ取り、手綱を引かれる前に大きな翼を広げて空へと舞い上がった。
アランはカルサア修練場に向かった。アルベルの腹心、カレル・シューインならば、何か知っているかもしれないと考えたのだ。
ところが。
「旦那?さあ?」
気持ちよく寝ていたところを叩き起こされて、少々不機嫌な様子のカレルの返事はこれ以上無い程、素っ気無いものだった。その、あまりに無関心な態度に、アランはカッとなり、冷たくキツイ口調で責めた。
「腹心の部下だと自ら豪語しておきながら、何故、その程度のことも把握しきれていないのですか!?」
アランは、自分がなりたくてもなれなかったポジションに、カレルが堂々と居座っているのが忌々しくてたまらないのだ。カレルが勝手に言っているだけだ思おうとしても、アルベル自身がそれを否定しようとはせず、しかもかなりの信頼を置いているのを知ってからは、ますますその存在が気に入らなかった。
カレルの方はそんなアランの感情に早くから気付いていたが、それをおくびにも出さず、知らぬフリを通していた。
「旦那がプライベートにどこで何してるかなんて、いちいち知りませんよ。案外、女の所にでも行ってんじゃないですか?」
カレルは、アルベルとアランの関係を知りながら、しれっとそんなことを言った。カレルは別にアランの事を嫌っているわけではない。ただ、普段感情を完璧な微笑の裏に隠して殆ど表に出さないこの美しい若者が、この一言で一体どんな反応を示すのか、それに興味があったのだ。
(女…!)
その言葉は、カレルの思った以上にアランを打ちのめした。
「そういう時ってのは、わざわざどこに行くなんて言ったりしないもんでしょ。普通は?」
大した根拠もなくそう言ってみたのだが、どうやらからかい過ぎたらしい。アランの顔から一気に血の気が引き、元々白い肌が、まるで磁器で出来た人形のように生気を失ってしまったのを見て、カレルは少々気の毒になった。
「まあ、心配しなくても、その内ひょっこり戻ってくんじゃないですかね?」
アランはあまりの衝撃にしばらく凍り付いていたが、口をやっと動かして、絞り出すように声を出した。
「しかし…もし何か…あったら…。」
「何か?例えば?」
「どこかで…怪我をなさってるのではないかと…」
まるで小さな子供を心配する母親のようなことを言うアランに、カレルは思わず噴出した。
「何かありゃ、自分で何とかするでしょ、ガキじゃねぇんだから。」
その途端、激しい怒りがエネルギーとなって、硬直状態に陥っていたアランを突き動かした。
「それが腹心たる者のセリフですか!?」
アランの怒りはアルベルとはまた違った意味で部下を振るえ上がらせるのだが、その冷気を帯びた怒りを前にしても、カレルはふてぶてしいまでに冷静沈着だった。
「勘違いしてもらっちゃ困る。俺は旦那のお守りじゃねぇんですよ。旦那は簡単にやられちまうようなタマじゃねえし、第一、大の大人が一晩行方をくらましたからって、そう騒ぎ立てる程のこっちゃないと思いますがねぇ?」
それに対して、アランは二の句が継げず、
「アルベル様がいらしたらすぐに連絡下さい。」
やっとそういい残して引き下がった。
アランが力なく帰っていくのを見送った後、カレルは自分の最も信頼の置ける部下数人を集めた。アランに対してああは言ったものの、やはり少し気になったのだ。
「旦那が行方不明だと。」
部下達はカレルを囲んで立ったり座ったり。目上の者に対して行儀がいいとは決して言えないが、こう見えても最低限の礼儀はわきまえている。アルベルからしてそうであるがゆえに、その部下達もおよそ似たり寄ったりなのだ。
「またどっかで修行してんじゃないっすか?」
「だが、誰にも何も言わずに消えたらしい。」
これまでは、消える前には少なくともカレルに後の事を押し付けるくらいのことはしていた。しかし、今回はそれがなく、しかも一緒に住んでいるアランにも何も言って無いとすると、アランの過剰なまでの心配を笑ってはいられない。
「んじゃあ………女?」
部下の一人がそう言うと、皆いっせいに笑い出した。
「ないない!あの超〜硬派な旦那に限って、それはない!」
「同感だな。あの人が女に言い寄るなんて、想像すらできん。」
「や、わかんねーぞ?女から誘われて、ころ〜っと!ってことがあるだろ?」
「ないない、それもない!普通、旦那にゃ近寄れねーって!一睨みでみーんな退散しちまうよ。」
「賭けるか?」
「よせよせ、どーせ賭けにゃなんねーよ!」
また修行の為に山に籠もっただの、どこかでふらふらしてるだの、部下達の勝手な議論を聞きながら、カレルはしばらく黙って考え込んでいた。この朝っぱらの時間に、いなくなったと言われても、部下達が言うように、ただ単にどこかでふらりとしているだけかもしれないのだ。アルベルの性格からして、それは大いに有得ることなのだが、万が一の事を考えて、カレルは何か手を打っておくに越したことはないと結論を出した。取り越し苦労で済んだら済んだで、それは構わないのだ。
「よし、探せ。」
「うっす!」
皆、命令が出た途端、ぴたりと無駄口をたたくのをやめ、一斉に立ち上がった。
***
アランはカルサアから家に戻って、やはりアルベルが帰ってきていないことに落胆し、それでも仕事を休むわけには行かず、こうしてアーリグリフ城の執務室の机に座っているのである。だが、仕事は全く手に付かない。
アランは机の上で手を組み、それを額に当てて、祈るような姿勢でアルベルの行く先を考えた。
(女…?あの人に限って、まさかそんな…。)
アランはその可能性を耳も目も塞いで拒絶した。
アルベルが行方不明という非常事態だというのに、アランは完全に思考停止状態に陥ってしまっていた。一刻も早く対策を考えなければと焦れば焦るほど思考は空回りし、『女』という所へ戻ってきては、急いで別の事を考えるという堂々巡りを繰り返す。
(どうすれば…どうすればいい!)
見たくない現実を突きつけられるのが恐ろしくて、探しに行くこともできなくなり、そこから一歩も動けなくなってしまっていた。それ程、ショックを受けていたのだ。
そこへ部下が定時の報告にやってきた。
一応、聞く振りはしていたが、全く頭に入らない。
報告を聞き流しながら、力なく落としていた視線に黒い影が過ぎった。
昨日の猫だ。
部下と一緒に入ってきたのだろう。部下はそれに気付かず、報告をし終えると、部屋を出て行った。
「ニャー!」
猫は、尻尾を立てて真っ直ぐアランに近寄ってきた。そしてひらりと机の上に飛び乗り、チンマリと座ってアランを見上げた。
「ニャーン。」
空想の中で高笑いをしている女のかわりに、この猫を引き裂いたら、少しは気が治まるかもしれない。アランに危険な衝動が沸き起こった。
アランは首を絞めるつもりで、猫にそっと手を伸ばした。だが、猫は逃げ出しもせず、じっとアランを見つめている。
「…。」
猫のキラリと光る紅い瞳は、まるでアルベルのそれのようでアランの方が怯んだ。指先でそっと猫の頬に触れてみる。猫はそれを気にすることなく、アランを真っ直ぐに見上げ、まるで話しかけでもするかのように、ニャーと鳴いた。
(不思議な猫だ…。)
何らかの意思を持っているかのような瞳を見ている内に、アランはつい話しかけてしまっていた。
「どこから来たのですか?」
「ニャー。」
「…早く家に帰りなさい。」
すると猫はニャーンと一鳴きして、机から飛び降り、ドアをカリカリと引っ掻きはじめた。外に出たいのだということはアランにも伝わった。
「…まるで言葉がわかっているかのようですね。」
アランはドアを開けて猫を外に出してやり、再びドサリと椅子に腰掛けた。
しばらくドアの外で猫がニャアニャアと鳴き、激しくガリガリと音がしてたが、その内、静かになった。
それからしばらく、アランは椅子の背に頭を預けて目を閉じ、現実から目を逸らしながら、まとまらない思考を何とかまとめあげようという無駄な努力していた。すると、
―――ガタガタッ!
窓からの不審な音に、目を開けてみると、さっきの猫が、前足で窓ガラスを引っ掻いていた。
「また、来たのですか?」
だが、次の瞬間、アランは椅子から跳ね起きた。猫が何かを口に咥えている。それは、アランがよく見慣れたものだったのだ。
アランは慌てて窓を開けた。すると、猫はするりと中に入り、アランの足元に咥えていた物をぽとっと落とした。
「…これはッ!」
それはアルベルの手袋だった。猫が引きずって来たせいか、泥で汚れてしまっている。
「これを一体どこから!?」
思わずアランは猫を問い詰めたが、猫はただニャーンと鳴くばかり。
アランは素早く猫を捕まえると、部下を呼んだ。
これは異常事態だ。やはり女の所に行ってなどいなかった。そう確信した次の瞬間から、アランの脳がいつもの明晰さを取り戻した。
「アルベル様を探しなさい!」
猫がアランの手の中でバタバタと暴れたため、部下に押し付けようとしたのだが、部下が手を伸ばした途端、今度は猫激しく怒り出したので、用意させた猫用のかごに閉じ込めた。
アランの命令に従って部下達が慌しく出入りする中、机の上にのせられたかごが、がったんごっとんと揺れていた。猫が中で大暴れしていたのだ。そのかごが机から落ちそうなのに気付いたアランは、かごの上に分厚い本を乗せ、自分も探しに行く準備をし始めた。
猫はどうしても逃げられないと悟ったのか、その内完全に不貞腐れ、アランに背を向けて丸まったきり、動こうとしなくなった。
アランは素早く装備を整え、外へ出て行こうとして、机に引き返した。アルベルが入れ違いで戻ってきた時の為に、書置きをしておこうと思ったのである。
その時、ドアがノックされた。命令を出してから数分も経っていない。もうアルベルが見つかったのかと期待したが、現れたのはカレル・シューインだった。
カレルは部屋に入るなり、挨拶もなしに用件を話し始めた。
「あれから旦那の目撃者をたどってみたんですがね。」
アランは軽く驚いた。結局カレルが自分の言い分を聞き入れて、既にアルベル捜索に動いていたというのは、全くの想定外だった。
(本当にこの男は扱い難い。)
そんな皮肉っぽい気分も、カレルが袋から取り出した物を見た瞬間に吹っ飛んだ。ドクンドクンと心臓が激しく拍動する。
「カルサアを出てからぱったり足取りがつかめないんで。そして、途中で部下がこれを見つけたんですよ。トラオム山岳地帯の道端の、草むらの中にあったそうで。」
アランは震える手でそれを受け取り、詳しく調べた。何と、刀から下着まで全てアルベルの身につけていた物だったのだ。
「ニャー!ニャーニャー!」
かごの中で猫が再び暴れている。
絶望の底から忍び寄った闇の手が、アランの心臓を鷲掴みにした。急速に思考、そして聴覚、視覚までもが低下し始める。
「どういう…ことですか…?」
自分の声が遠くで聞こえるような錯覚に陥る。
「旦那は今、丸腰の上に素っ裸ってことですかね。」
カレルが笑いもせずさらりとそう言うと、猫が怒ったような声でニャーオ!と鳴いた。アランもその手が動くなら、間違いなくカレルを殴りつけていただろう。だが、出来たのは、やっとの思いで声を絞り出すことだけだった。
「馬鹿な…!」
「まあ、ここで別の服に着替えたと考えるのが妥当でしょうね。これらの物は明らかに隠してあった感じだった。そして、周囲に旦那の姿はありませんでしたから。」
「ンニャニャー!」
「…着替える?…何のために?」
「さあ?」
さっき発し損ねた怒りがここでドカンと爆発した。怒りがパワーとなり、アランの声がこれ以上無いほど鋭く尖った。
「もっと真剣に考えたらどうですか!」
だがカレルは、
「真剣に?例えば?」
と軽く肩をすくめただけだった。
アランが怒ると部屋の温度が急に下がる気がすると、疾風の兵士が言っていたのを思い出す。業火の如きアルベルの怒りとは本当に対照的だ。性格も天と地ほどに違う。そもそも、自分の目から見たアランは、どう考えてもアルベルの嫌うタイプの人間だ。
(何でこの二人が『仲良く』やれんだろうな?)
絶句しているアランを眺めながら、カレルはしんから不思議に思った。
「ニャーニャーニャー!」
猫がやかましく鳴き続ける中、アランはどさりと椅子に座り込んだ。先ほどの自分の言は確かに愚かだ。考えた所で何がわかるわけでもない。アランは自分が恐ろしく取り乱していることに今更ながらに気付いた。カレルはそれを気にする風でもなく、あっさりと話を戻した。
「ただ、一つ気になるのは、刀も置いてってるってことです。あの旦那が刀をあんな所に放っておくなんてのは考えられない。…案外、中身だけ消えちゃったんじゃないですかね?」
(消えた!?)
その仮定にぞっと背筋が凍る。
(こんな男のもう二度と言うことなどあの人に聞く価値もない会えない?いや、聞くべきではないッ!!)
「ニャーニャーニャーニャー!」
「でもそうなると、”隠す”事はできなくなる。」
(そうだ。あの人が消えるなど有得な…)
「但し、他の人間が隠したので無い限り、ね。」
「ニャーニャア!」
(他の人間!?まさかッ!!…ああ、落ち着け!何故、私はいちいち真に受けているのだ!?)
アランは、カレルの一言で絶望と希望の間を行ったりきたりさせられるのに、いい加減疲れてきた。カレルは本当は簡潔にわかりやすく話ができる癖に、アランに対するときにはいつもこちらをからかっているのかのように、回りくどい言い方で情報を小出しにしてくる。今日はそれがいちいち感情を逆なでする。
実は、カレルがそうするのは、アランへの警戒心からで、またそうすることで、何を考えているかわかりにくいアランの腹の内を探ろうとしているのだったが、アランはそれをアルベルを巡っての嫉妬心からだと思っていた。
アルベルと自分との関係に気付いているくせに、それをおくびにも出さない。これまで裏を見すぎていたアランにとって、その不可解な行動に対して、カレルが何かを企んでいるとしか思いようがなかったのである。
「ニャーニャーア!」
もう我慢の限界だった。
アランは眉一つ動かさず、無言で猫の入ったかごを机の上から払い落とした。
これにはカレルもぎょっとした。アランのこんな行動は初めて見る。だが、カレルはこれだ、と思った。アランを警戒する理由はまさにこれなのだ。穏やかな微笑の裏に隠された本性。今まで漠然と感じていた事が、今はっきり形となって表れた。
上に乗せていた本と共にかごが落下し、床で一度跳ね、その衝撃でかごの扉が開いた。
「フギャーッ!!」
中から猫が飛び出し、物凄い勢いで本棚の上に駆け上がった。そして、そこからアランを睨み下ろし、牙をむいた。
「…何です?あの猫?」
カレルは猫を見上げて思わず噴き出しそうになった。その猫の目の据わった感じが、アルベルを思い出させたからだ。
だが、アランは猫の方を見ようともしない。カレルとは無駄話など一切したくなかったのだったが、この猫がアルベルの服をもって来たのだということを思い出して、思い直した。
「この猫がアルベル様の服を持ってきたのです。」
「へえ?」
それを聞いて、カレルには思い当たる事があった。
「…そういや、旦那の服を見つけられたのは、何かを引きずった跡をたどっていったからなんで。」
「だから?」
アランはカレルを冷たく見据えている。一見、冷静さを取り戻したように見える。
「服を隠したのはこの猫の仕業でしょうかね?」
そういった瞬間、足元から冷気が上って来くるのをはっきりと感じた。
「猫が?アルベル様の服を隠す?人を馬鹿にするのもいい加減にしてくれませんか。」
アランから表情が完全に消え、声にも抑揚がなくなった。そして、カレルの足元の床がパキパキと凍りつき始めた。
「ンナアァーッ!!」
猫が今にも飛び掛らんばかりにアランを威嚇している。しかし、アランはその存在を完全に無視している。だがもし、この猫がアランの近くにいたなら、真っ先に標的となっていたことだろう。
(なんだ。部屋の温度が下がる『気がする』んじゃなくて、実際に下がってんじゃねぇか。)
カレルはそんなことを考えながら、少々焦った。これは単なる脅しではないのだ。
もし今、武器に手を伸ばしでもしたら、次の瞬間には氷の像となってしまうだろう。そして、恐らくアランは、武器に手をかけた格好で凍りついたカレルの姿を、自分の正当性を主張する為の道具として使うに違いない。他の軍団員、しかもアルベルの腹心を殺したとなれば、これは由々しき問題であるが、命の危険を感じたとでも言えば、アランが先に攻撃を仕掛けたという証拠でも無い限り、それ以上の追求は出来ない。
カレルはゆっくりと胸の前で腕を組んだ。こうしている限り、少なくとも殺される事は無いと読んだのだ。そして、それはその通りだった。
(実に見事なシナリオだ。旦那は知ってたのかね?この男のこういう一面。)
カレルは本棚の上で盛んに鳴き立てている猫をチラリと見、敢えて更にアランの怒りを煽った。
「馬鹿になんてしてませんよ。あんたが勝手にうろたえているだけだ。軽くあしらえばいいことでしょ?いつものようにね。」
それは、アランの本性をより浮き彫りにさせるためだった。知った上で『仲良く』するならそれはいい。だが、知らずにいるとすれば、それは問題だ。目を覚ましてもらわなければならない。
カレルのそんな思惑を他所に、アランは完全に切れた。空気中の水分が凍り、キラキラと光を発しはじめた。カレルの息が白く凍る。しかし、カレルが攻撃体勢に入らない限り、このまま凍りつかせることはできない。
「そのまま大人しく氷づけになるつもりですか?」
アランはカレルが腕を組んだままである事に業を煮やし、武器を取れとけしかけてきた。
「まさか恐怖で動けないとは言わないでしょう?漆黒の騎士としての誇りも無いのですか?」
表面は笑顔でありながら、いつも冷ややかに自分を見下し、身のこなしから一言一句に至るまで寸分の隙も無い男が、これほどまでに歯車を狂わせている理由。それはアルベルなのだ。
「ンナオーッ!!」
カレルは猫を見上げた。本棚からどうにか飛び降りようとしている。だが、勢いで登った所が少々高すぎたのか、どうやって降りればいいのかわからないようだ。
「この猫が服を持ってきたんでしょう?トラオム山岳地帯から、わざわざここまで。」
だから何だという顔だ。
普段のアランならば、すぐに察するはずだが、本当にらしくない。アルベルが居なくなったという事実が、アランにとってそれほど致命的な事なのだ。
「…俺は、この猫が旦那なんじゃねぇかって言ってんですよ。」
「えっ?」
その途端、冷気がぱあっと散った。極度の緊張から解き放たれ、カレルはほうっと安堵の溜息を付いた。
アランが驚いて猫を見上げると、猫はギリギリまで体を伸ばして、本棚の一番上の段に前足をつかせようとしている格好で固まった。じっと二人の視線が合う。すると、猫は本棚から降りようとするのを止め、ついとそっぽを向いた。その仕草が、アルベルのものと重なる。アランは立ち上がった。
「まさか…本当に…?アルベル様?」
「左前足に火傷がある。間違いない…んでしょ?旦那?」
猫はそっぽを向いていたが、尻尾の先だけがピコピコと動いた。カレルはそれを見て確信し、猫に話しかけた。アルベルとして。
「しかし、なんだって、そんな格好に?」
「ウゥ…。」
猫は不貞腐れている様子だ。カレルは猫に向かって両手を伸ばした。
「ほら。」
猫はじっとその手を見て思案顔をしていたが、カレルが、
「そっから降りれないんでしょ?」
と言うと、いきなり頭めがけてジャンプしてきた。
「いてッ!」
カレルの頭を飛び石とし、そのまま背中を駆け下りて、すとっと地面に着陸した。
カレルは踏み台にされたことに文句を言いつつ、しかしまあ無事で何よりと猫に話しかけている。アランは呆気にとられてそれを見ていた。アランには猫の仕草などわからなかったため、カレルが猫をアルベルと確信したのをどう受け取って良いのか、戸惑っていたのだ。だが、この猫がアルベルだとすると、これまでの全ての事象が繋がる。
「さて、何でそーなったのか、じっくり話を聞きたいことろだが、しゃべれませんよね。どーします?」
「ニャー。」
「人間が猫に変身するなんて、聞いたことねぇしなぁ…。詳しい奴に当たってみましょうかね。」
カレルが扉に向かうと、猫もついていこうとした。
「待ってください!」
アランがそれを呼び止めると、カレルと、そして猫も振り返った。アランは猫を凝視している。
「?」
「その猫がアルベル様であるという確証はあるのですか?」
「確証ねぇ…。ああ、そうだ♪」
カレルはニヤリと笑い、猫の前にしゃがんで手をさし出した。
「もし、本当に旦那だっていうなら、お手してくださいよ。お手。」
「ンニャ!?」
猫は何だと!?と言うようにカレルを見上げた。
「そうしないと本当に旦那だってことがわかんないでしょ?ほらほら♪」
すると猫は不機嫌そうに唸りながら、バシッと猫パンチを食らわした。
「いッてッ!」
その瞬間、
「アルベル様ッ!!」
というアランの叫びとともに、猫は掻っ攫われるようにしてその腕に抱きこまれた。
「ンナーオーッ!」
猫は激しく嫌がり、何とか逃れようとバタバタと暴れた。だがアランはますます猫をしっかり抱きしめた。
「もう…なんでもいい…無事でさえいて下されば…!」
アランの肩が震えている。やがて猫は諦めた表情でだらーんと伸びきった。
それを見ていたカレルは、アルベルがどうしてアランを受け入れるのか、その理由が何となくわかった気がした。そして、その場の空気を察し、
「じゃ、…何かわかったら知らせますんで。」
と引っかかれた手の平を舐めながら出て行った。