今日は謁見の日。アルベルはカルサアからアーリグリフ城に向かって続くトラオム山道を一人歩いていた。部下を最低でも一人連れて行けといわれているのだが、今日はそういうわけにもいかなかった。
謁見が終わったら、アランのところへ行き、自分の分の書類を押し付けてその間昼寝し、アランの飛竜で一緒に帰るつもりだったのだ。
漆黒の拠点はカルサア修練場。アルベルは殆どそこにいる。その為、戦争が終わった最近では、アルベルが城に来ることはあまりない。それで、王から、たまには顔を見せよ言われていたのだが、面倒くささに先延ばし先延ばしにしていたら、週一回、『謁見の日』なるものを勝手に決められてしまった。
「はあ、面倒臭ぇ。」
王に会った所で報告する事など何も無い。大抵、最近はどうだ?ときかれて、別に普通だと答え、それから王の世間話に付き合って終わりになるのだ。まあ、謁見が済んだ後の事の方がアルベルにとっては重要だったから、城に行くのは別に問題なかった。
いつだったか、文句を言いながら書類に目を通し、やる気なさそうにサインをしていると、アランが代わりを申し出てきた。最初は断わっていたが、そうすると悲しそうな顔をするので、つい任せてしまった。そして、「その代わり、ここに居て下さい。」と言われ、それからというもの、アランが仕事をしている間、その横でゴロゴロするというのが決まりごとのようになってしまっていた。
(腹が減った。)
もう、日は傾き始めている。今日の夕食はなんだろうかと、考えていた矢先、上空をさっと影が過ぎった。
魔女型のエネミー、ラビッチだ。イタズラっぽい笑顔を浮かべながら。アルベルの前に立ちはだかった。
「ちッ!」
アルベルはこの手の魔物が苦手であった。外見がまるで人間の少女だったからだ。しかし、こっちの事情などお構い無しに、ラビッチが襲い掛かってきた。アルベルは刀も抜かずに、それをやり過ごす。そして、箒をの柄を掴んで房の部分を蹴り飛ばした。するとラビッチが箒から落ち、地面にどしんと尻餅をついた。
「いったーい!」
黄色い悲鳴に、アルベルは元々無かったやる気を完全に失った。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
「ふん。」
アルベルはもう決着は付いたと、踵を返した。だが、ラビッチはスカートに付いた土を払いながら、
「もー怒ったぞー!」
と、アルベルを指差した。
「猫になっちゃえー!」
ラビッチの指先から光線が走り、アルベルの周りに、ぼわん!とピンク色の煙が立ち込めた。
「きゃははははvvざまーみろー!」
「ニャニャニャ…!」
アルベルはピンク色の煙の中で相手の姿を探しながら、何がザマミロだ!と言おうとして、声が自分のものと違うことに気付いた。いや、最早それは人の声ではなかった。
風がピンクの煙をかき散らしてくれ、やっと視界が開けた。そして、目にした光景に驚いた。さっきまで見下ろしていたはずのラビッチが自分を見下ろしている。ラビッチが巨大化した!?いや、自分の周囲にはさっきまで着ていたはずの服が落ちている。
(縮んだのは俺の方か!?)
アルベルは自分の手を見た。
「ニャ?」(ん?)
チンマリとしたお手々にピンクの可愛い肉球!
猫の前足!?何故俺の目の前に!?
「ニャニャッ!?」(これは一体!?)
「あっかんべーだッ!きゃははははvv」
「ニャア!」
ラビッチをフン捕まえて元に戻させようにも、ラビッチはひらりと箒に跨り、ぴゅーッと空の彼方へと消えていった。
「ニャーッ!!」(待てーッ!)
と叫んだものの、待ってくれるはずもなく、追いかける暇もなかった。
「ニャ〜…。」
流石に弱った。耳と髭が自然としおれる。どうしたら元に戻れるのか全くわからない。その内元に戻れば良いが、一生このままだったら…。
何とかしなければ。アルベルは兎に角、アランに会いに行くことにした。アイツなら何とかしてくれるはずだ。
刀や服をそのまま路上に放置していくわけにはいかないので、取り合えず一つずつ咥えて、引きずりながら草むらに隠した。
そして、ダッシュでアランの居るアーリグリフ城へと向かった。
アーリグリフの城下町。見飽きるほど見慣れた町のはずなのに、全く見知らぬ所に来てしまったような錯覚に陥った。猫の目線で見る人間の世界。人々の喧騒、足音、パリンと割れる皿の音、ガラガラと音を立てて通り過ぎる押し車。人間の時には耳慣れた音だったのに、猫の耳にはそれらがやたらとビリビリと響いて、堪ったものではなかった。
ガチャン!
突然起こったその音に、アルベルはビクッと飛び退った。物凄く耳の傍でなったような気がしたのだ。が、実際は店の中の音だった。若い店員がぺこぺこと頭を下げている。
(聴覚が敏感過ぎるのも、あんまりいいもんじゃねぇな。)
アルベルは耳をしっかりと伏せ、急いで街の中を通り抜けた。
城までくると、町よりは静かになってきたが、それでも、石の床に響く靴の音や兵士達の掛け声が、壁にわんわんと反響して、不気味な雰囲気を醸し出していた。
その中を、アルベルはまっすぐアランの部屋へと向かった。だが、部屋の扉はしっかりと閉められていた。
(アラン!)
呼びかけてみたが、中に人のいる気配が無い。どこかにいっているらしい。探しに行こうかと思ったが、それよりもここで待っていた方が会える確立が高いと思い直した。アランはこの部屋に居る事が多いからだ。
そうして、扉の前で座り込んでいると、廊下の向こうから見回りの兵士達が歩いてきた。そして、すぐさまアルベルの姿を見つけた。
「あ、猫だ。」
「どこから入り込んだんだ?シッシッ!」
槍の柄で小突かれそうになって、アルベルは怒った。
(何しやがるッ!)
「あ、怒った。」
「生意気な!」
アルベルは蹴飛ばされそうになり、それをひらりとかわした。
「こいつめッ!」
この男は猫が嫌いらしい。しつこく追い回され、アルベルはひとまず退散することにした。
城の外に出て、一目に付かない所に潜り込んだ。そして、どうやって入り込もうかと考えていて、アランがよく窓を開けている事を思い出した。アランは淀んだ空気を嫌うらしく、冬でも窓を開けていたりするのだ。
急いで城の周りを回り、二階のアランの部屋の窓を見上げて確認する。やはり開いている。
しかし、そこへ行くまでが問題だった。城壁は垂直で到底よじ登れそうに無い。
(どうすれば…。)
窓の前には植木鉢を置けるようなスペースがある。
(あそこにいければいいんだが…。)
と、アルベルは、そのスペースに繋がる道を見つけた。城の壁に、真横に続いた出っ張りがあったのだ。そんな装飾が施されているなど、こんな状況でなければ一生気付かなかったかもしれない。その出っ張りを目で追う。その先に大きな木が生えていた。太い枝が出っ張りの近くまで伸びている。
恐らく木から飛び移ればそこへいける。そして出っ張りを伝って窓へ行く。自分は今、猫なのだから、それが可能なはずだ。
(…多分な。)
自信は無かったが、他にどうしようもなく、取り合えずやってみる事にした。まず木に登る。猫の体は人間より遥かに身軽だったためそれは簡単だった。そろそろと枝を伝って、そこから下を見下ろしてみた。
(落ちたら死ぬな…。)
たった一メートルが物凄い高さに感じる。深く考えると恐怖で飛べなくなりそうだったので、出っ張りの幅は十分にあるのを確認し、アルベルは気合を入れて枝から飛び移った。
すたッ!
思っていたよりも造作なく飛び移れた。
(猫の体は人間より遥かに性能がいい♪)
そんな事を考えながら出っ張りを伝ってアランの部屋の窓に向かった。
窓から部屋の中を覗いてみる。しんとしている。やはり誰もいない。アルベルは窓の隙間からするりと入り込み。いつものようにソファに寝そべってアランの帰りを待った。
それから程なくして、アランが部下を引き連れて部屋に戻ってきた。アルベルはさっと起き上がって、呼びかけながらアランの足元に寄った。
(アラン!)
アランはアルベルをじっと見下ろしている。
(アラン!俺だ!)
何の根拠もなく、アランなら一目で自分とわかってくれると思っていたのだが、やはりそれは無理な相談だった。アランはアルベルを一瞥しただけで、興味なさそうに避け、机に座るとさっさと仕事を始めた。
(アラン!俺がわからねぇのか!?)
「隊長に懐いてるんですかね?」
アランの部下は猫に興味を持っているようだが、アランはこちらを見ようともせず、
「さあ?大抵、動物には嫌われるのですが…。」
と、忙しく手を動かして書類を片付けている。アルベルはムカッと来た。
(おい!こっちを向け!何で無視しやがるッ!)
すると、やっとアランがペンを置いた。だが、次のセリフはアルベルの予想を遥かに超えるものだった。
「これをどこかへ捨ててきてくれませんか。」
アルベルは愕然とした。
(捨てる?この俺を…?)
アランがこちらをチラリと見下ろした。その瞳には何の感情も無い。アランにこんな目で見られたことなど、今まで一度もなかった。アルベルの胸にひやりと冷たいものが差し込んだ。
「さあ、おいで。」
部下がアルベルを捕まえようとしてきた。
(触るなッ!!)
アルベルは部下を一喝し、激しく憤慨しながら、窓からするりと外へ出た。
(この俺を捨てて来いだと!?しかも、『これ』!?もう、あんな奴の事など知るかッ!)
来た道を戻り、しかし行く当てもなく、城の裏にある湖までやってきた。
ここはアルベルのお気に入りの場所。むしゃくしゃすることがあると、よくここにきて時を過した。アーリグリフ山脈の裾野の森のかなり奥まった場所であるため、人が来ることは無い。
冬は完全に雪に閉ざされてしまうが、春から秋に掛けて、ここは季節を最も感じられる場所なのだ。葉の間を通り抜けた光が筋となって湖に差し、柔らかで幻想的な空間となっている。
アルベルは水面に映った自分の姿を覗き込んだ。一匹の若い猫がじっとこっちを見ている。
こんなナリだ。アランが自分に気付かなかったのは仕方が無い。だが、アランに無視されたこと、あんなに冷たい目で見られたこと。それがショックだった。
自分の中で、アランに常に注目され、あれやこれやと世話をやかれるのが当たり前になってしまっていたのだ。
そう考えるうちに、水の中の猫はしょんぼりとなってきた。その情け無い顔に、アルベルは慌てて頭を振った。
(フンッ!元に戻ったらアイツに思い知らせてやる!)
気持ちを切り替えて、取り合えず何か食べる物を探そうと町に出た。そう言えば腹が減っていたのだ。
町の中をうろうろとしてみる。店の中からいい匂いが漂ってくる。
(金は…持ってなかったな…。)
茂みに隠した服の中だ。と、そこで、はたと重要なことに思い当たった。猫になってしまってすっかり失念していたが、今、自分は全裸なのだ。この姿で元に戻ってしまったらまずい。
アルベルは、町中ですっぽんぽんの自分を想像して、急いでに自分の服が落ちている所のへ戻った。腹は減っているが、いつ元の姿に戻るかわからない状況でうろうろはできない。それに金を持っていったとしても、猫が食べ物を買いに来たと誰が思うだろうか?追い払われるのがオチだ。
きゅるるる〜。
アルベルは寂しげに鳴く腹を舌で舐めて紛らわした。ここから家まで、歩いて帰るには遠すぎる。今夜はここで野宿するしかない。アルベルは自分の服を寝床としてあつらえながら、アランの事を考えた。家に帰らなかったらきっと心配するだろう。道中で人間に戻る危険を冒してでも家に帰るべきか。だが、そうやって帰ったとしてもアランには、自分が猫になってしまっているとはわからない。
『これをどこかに捨ててきてくれませんか。』
アルベルはフンと鼻を鳴らして腰布のベッドにうずくまり、目を閉じた。
次の朝、起きてみたらやっぱり猫の姿のままだったアルベルは、この時間はアーリグリフにいるであろうアランのところに出掛けた。やはり頼れるのはアランしか居ないのだ。
また窓から入ろうと思ったが、今日は窓が閉まっていた。もしかしていないのだろうか?兎に角、よじ登って窓から覗き込もうとして、ふとアランの部下が歩いているのを見かけた。いつも定時報告にくる部下だ。アルベルは気付かれないようにその後に付いていき、一緒に部屋の中に入り込んだ。
アランは部屋に居た。
アルベルはすばやく死角に入って身を潜め、アランの様子を窺った。部下のいる間に見つかっては、また捨てて来いだのという事態になってしまう。だが、アランとさしで向かい合えば、きっと通じるのではないかという気がしたのだ。
潜り込んだところからは、アランの顔がよく見える。アランはかなり憔悴しきっている様子だった。多分、突然姿を消してしまった自分の身を案じ、一睡もしていないのだろう。部下の報告にもぼんやりとしている。
そんなアランを見ると、捨てて来いなどと言われたことへの怒りも納まっていった。そして、自分のためは勿論、アランのためにも早く元に戻りたいと思った。
報告を終わった部下が出て行くのを待って、アルベルは姿を現し、アランに語りかけた。
(アラン!)
アルベルはひらりと机の上に飛び乗り、
(アラン。俺だ。)
と真剣に訴えかけた。アランはそれをじっと見ている。だが、そこにいつもの温かさは微塵もない。
アランがゆっくりと手を伸ばしてきた。
気付いて欲しい。何とか気付いてくれないだろうか。
そんな期待を込めてアランを見つめた。すると、アランの瞳に戸惑いの色が浮かんだ。アランの指先が、そっと自分の頬に触れる。
(気付いたのか?アラン。)
だが、そうではなかった。
「どこから来たのですか?」
(駄目か…。)
やはり気付いてもらえないことに、アルベルは落胆しかけたが、アランの『どこから』という問いかけに、あるヒントを得た。
服が落ちているところへ、連れて行けばいいのだ。そうすれば自分だと気付く切欠になるはずだ。
「…早く家に帰りなさい。」
(そうか!アラン、ついて来い!)
アルベルは張り切って机から飛び降り、ドアをカリカリと引っ掻いた。
「…まるで言葉がわかっているかのようですね。」
アランが立ち上がってきて扉を開けた。これなら上手く行きそうだ。だが、部屋を出て、
(こっちだ!)
と振り返った鼻の先で、無情にもドアがパタンと閉まってしまった。
(くそッ!あいつめー!)
アルベルはドアに爪を立てて引っ掻いた。
(おい、アラン!ここを開けろ!さっさと開けやがれッ!)
盛んに呼びかけたが、何の反応も無い。
何とか、自分であると気付かせなくては!
アルベルは走って、隠した服の所へ戻った。アランを連れて行くのが無理なら、こちらから持って行けばいいのだ。
息せき切って草むらに潜り込み、どれを持っていこうか悩んだ。ここから運んでいくとなると、刀はとてもじゃないが無理だ。一番軽くて持ちやすいもの…。
パンツ。
嫌だ。これだけは嫌だ。そこで次に小さな手袋を選んだ。パンツよりは随分かさばってしまうが、この際致し方あるまい。手袋の端を咥え、ズルズルと引きずりながら、急いでアランの元へと戻った。
ドアの外から猫の鳴き声で呼んだとしても、アランは出てはこないだろう。そうなると中に入り込むのは窓しかない。窓は締まったままだが、手袋を咥えているのが見えるはずだ。
アルベルは昨日登ったようにして窓の所に行くと、部屋を覗きこんだ。アランは椅子に寄りかかって目を閉じている。
(寝ているのか?)
いや違う。体の前で組んだ手が微かに動いている。何か考え事をしているらしい。こちらに気付かせるために、窓を前足でガタガタと揺らした。
アランがこちらを見た。そして次の瞬間、椅子から跳ね起き、血相を変えて窓を開けに来た。狙い通りだ。
アルベルは中に入ると、手袋をアランの足元に置き、期待を込めてじっと見上げた。
「これを一体どこから!?」
だが、気付いてもらうどころか、またここで予想外の事が起こった。アランはいきなりアルベルを捕まえ、部下を呼んだのだ。
(こらッ!放せッ!)
脇の下を両手で捕まえられ、ぶらりとぶらさがる。こんな無様な姿を、人前に晒すなど我慢できない。だが、必死で抵抗していると、それを持て余したのか、アランはアルベルを部下に渡そうとした。
部下がそれを受け取ろうと、伸ばしてきた手の感触に、アルベルはざわっと毛を逆立てた。
(触るなッ!!)
「うわッ!!」
アルベルの剣幕に怯え、部下は慌てて手を引っ込めた。
「何をしているのです?」
猫からは威嚇され、アランからは咎められ、部下はオタオタとなった。
「か、噛み付かれそうで…。」
「かごを!」
アランは言い訳しようとする部下を遮って、短く命令を下した。
数分後、アルベルはそれに閉じ込められてしまった。
アルベルは当然怒りまくった。
(出せ!おいこらアラン!俺だッていうのがわからんのか!ここから出せーッ!)
だが、かごの中で暴れるだけ暴れていると、とどめにかごの上にどっしりと本が置かれた。
(この野郎ーッ!!)
今度はどんなに飛び跳ねてもビクともしなくなった。
(くそッ!くそッ!!あいつめ〜ッ!!今に見てろよ〜〜ッ!!)
アルベルはイライラする気持ちを毛繕いで紛らわした。かごの外からアランの声が聞こえる。
「何としてでも、アルベル様を探し出すのです!」
(けッ!見つかるか、阿呆。)
どうやら、総出でアルベル捜索に乗り出すらしい。それでも見つからないとなると大騒ぎになるだろうが、知った事ではない。アルベルはかごの中で丸まり、不貞寝する事にした。
そこへ、ノックの音が響いた。
コンコン
「どうぞ。」
「失礼します。」
アルベルの耳がピクッと声の方に動いた。カレルの声だ。かごの隙間から、カレルの珍しく真面目な顔が見える。
「あれから旦那の目撃者をたどってみたんですがね。カルサアを出てからぱったり足取りがつかめないんで。そして、途中で部下がこれを見つけたんですよ。トラオム山岳地帯の道端の、草むらの中にあったそうで。」
カレルはそう報告しながら、アランにアルベルの服を渡した。アランは震える手でそれを確認していたが、その中からパンツを見つけると、顔から完全に血の気が引いた。逆にアルベルの顔には血が上る。
(こ、こら!そんなもん、マジマジと見るんじゃねえッ!)
アルベルがいくら面倒くさがりで、家事全般をアランに任せているとはいえ、下着くらいは自分で洗っている。もっとも、それを干してたたむのはアランだし、情事の後、気付いたら下着は既に洗濯されていたこともあったが、それでも脱いだ物をそんな風に見られるのは恥ずかしかった。だが、アルベルの抗議は完全に無視された。
「どういう…ことですか…?」
アランの声が震えている。
「旦那は今、丸腰の上に素っ裸ってことですかね。」
(カレル、貴様!いい加減な事、ほざいてんじゃ……いや……そう言われればそうか…。)
事実、今、自分はすっぽんぽんなわけだ。アルベルは自分の猫毛に覆われた体を不安気に確認した。
「まあ、ここで別の服に着替えたと考えるのが妥当でしょうね。これらの物は明らかに隠してあった感じだった。そして、周囲に旦那の姿はありませんでしたから。」
(誰が下着まで脱いでいくかッ!もうちょっとマシな事を考えろッ!)
「…着替える?…何のために?」
「さあ?」
「もっと真剣に考えたらどうですか!」
アランの鋭い怒声に、アルベルはちょっと驚いた。アランが怒るのを見たのは初めてのことだったのだ。
「真剣に?例えば?」
人を食ったようなカレルの返答に、アランは不快感を露にした。こんな顔も初めて見る。アルベルが知っているアランは、他人の一言でこんな風に動じたりはしない。侮蔑の言葉ですらいつもさらりと交わし、何事もなかったかのように微笑む。実はそれは、他人に対して無関心であるが故だったのだが、そこまではアルベルは知らない。
ただ、今のアランに狂いが生じているのはわかる。その原因が、自分が姿を消した(実際は目の前にいるのだが)せいだということも。
(おい、アラン!何をマジになってやがる!俺はここだ!)
だが、アランは気付かない。イライラとした様子で椅子に座り、眉間に皺を寄せて目を閉じた。
「ただ、一つ気になるのは、刀も置いてってるってことです。あの旦那が刀をあんな所に放っておくなんてのは考えられない。…案外、中身だけ消えちゃったんじゃないですかね?」
(あーくそッ!てめぇら、いい加減俺だって気づけッ!)
カレルが淡々と状況から見た推察をしている間、アルベルはかごの中で声を限りに訴えていた。
「でもそうなると、”隠す”事はできなくなる。…但し、他の人間が隠したので無い限り、ね。」
(兎に角、俺をここから……!)
その時、突然、アルベルの世界が揺らいだ。何が起こったのか理解する暇もなく、一瞬の無重力状態の後に物凄い衝撃を受け、アルベルは死に物狂いでかごから外に飛び出した。
気付けば、高い本棚の上にのぼっていた。そして、そこから見下ろして、全てを悟った。アランがかごを机の上から払い落としたのだ。
(アラン!貴様〜ッ!!)
「…何です?あの猫?」
カレルがこっちを見、アルベルの顔を見て笑いを噛殺した。
(何が可笑しい!?)
「この猫がアルベル様の服を持ってきたのです。」
「へえ?」
アランの説明を聞きながら、カレルの視線がアルベルの左前足にとまり、その目がキラリと光った。
「…そういや、旦那の服を見つけられたのは、何かを引きずった跡をたどっていったからなんで。」
「だから?」
「服を隠したのはこの猫の仕業でしょうかね?」
まさか、カレルは気付いた!?アルベルはじっと成り行きを見守った。だが、アランはそれを一笑にふした。
「猫が?アルベル様の服を隠す?人を馬鹿にするのもいい加減にしてくれませんか。」
アランから表情が完全に消え、声にも抑揚がなくなった。アランが怒るのも当然だと、当のアルベル自身がそう思った。こんな馬鹿げた話を真に受ける人間などいないだろう。ましてや、この非常時にこんな冗談を言われたら、アルベルだってぶち切れる。
だが、アランの次の行動は常軌を逸していた。アルベルはぎょっとした。アランがカレルを殺そうとしている。
(まさか!?)
これはどう考えてもいき過ぎだ。どうして、いきなりこんな行動をとるのか、全く理解できない。だが、兎に角止めなければならない。
(ちょっと待て!アラン!止めろッ!)
本棚の上から盛んに呼びかけるアルベルに、カレルはチラッと意味深な視線を送り、更にアランを挑発した。
「馬鹿になんてしてませんよ。あんたが勝手にうろたえているだけだ。軽くあしらえばいいことでしょ?いつものようにね。」
(この阿呆がッ!更に煽ってどうする!?)
しかし、こんな遠いところからではアルベルの叫びは届かない。咄嗟にアルベルは本棚から降りようと下を見下ろしたが、
(お…降りれん…。)
その断崖絶壁に近い高さに目がくらんだ。一体、どうやってこんな所にまで登ってしまったのか。本棚には豪華な装飾が施されており、一段目の棚に足をかけようにも、装飾が邪魔して、届かないのだ。
「そのまま大人しく氷づけになるつもりですか?…まさか恐怖で動けないとは言わないでしょう?漆黒の騎士としての誇りも無いのですか?」
アランは本気だ。
(くッ!一刻の猶予もねぇ!)
アルベルは覚悟を決め、体を出来るだけ伸ばして、一つ目の棚に何とか足を掛けた。そして、そこから一気に駆け下りようと、覚悟を決めたとき、カレルの一言が事態を変えた。
「…俺は、この猫が旦那なんじゃねぇかって言ってんですよ。」
「えっ?」
これにはアランだけでなく、アルベルも驚いた。アランはまさかという表情でこちらを見、その時目が合った。
「まさか…本当に…?アルベル様?」
(ふん!今更気付いても遅い!)
「左前足に火傷がある。間違いない…んでしょ?旦那?」
(やはり気付いていやがったのか。)
人間が猫になるなど、こんな非常識な事態をすんなりと受け入れられるのは、非常識な人間でなければ到底無理だ。現に、アランはまだ信じられないといった顔をしている。だが、カレルは確信したようで、完全にアルベルとして話しかけてきた。
「しかし、なんだって、そんな格好に?」
そう言いながら、カレルはこちらに向かって両手を指し出してきた。
(なんだ?)
「ほら。そっから降りれないんでしょ?」
(むッ!)
アルベルは図星をつかれてムカッと来た勢いで、突然カレルの頭目掛けてジャンプした。
「いて!」
カレルの頭から肩を伝って、そこから漸く地面に降りることができた。
「ったく、人の頭を踏み台にしないで下さいよ。…まぁ、無事で何よりですがね。さて、何でそーなったのか、じっくり話を聞きたいことろなんですが、しゃべれませんよね。どーします?」
(さあな。)
アランがこちらを見ているのは気付いていたが、今はそちらを見る気にはなれなかった。やはりアランのとった行動が許せなかったのだ。アルベルの腹心の部下に手を出すということは、アルベルに対する宣戦布告ととってよかった。勿論、アランにはそんなつもりは毛頭無いことはわかっているのだが。
カレルは殺されかけたすぐ後だというのに、全く何事もなかったかのようにアルベルに話し掛けている。アランに対してもこれまでと変わらぬ態度だ。こういう図太い神経の持ち主だからこそ、アルベルに気付けたのだろう。そういえば、こいつが取り乱すのを見た事がないとアルベルは思った。
「人間が猫に変身するなんて、聞いたことねぇしなぁ…。ちょっと仲間に声掛けて人海戦術で調べてきます。」
(待て、俺も行く。)
そうして、アルベルがカレルについて行こうとしたとき、アランがそれを呼び止めた。
「待ってください!」
動揺を隠し切れない様子だが、それでも信じたいという気持ちの方が強いようだ。食い入るようにアルベルから目を離そうとしない。
「その猫がアルベル様であるという確証はあるのですか?」
「確証ねぇ…。ああ、そうだ♪」
カレルはイタズラを思いつき、しゃがんで手をさし出した。
「もし、本当に旦那だっていうなら、お手してくださいよ。お手。」
(何!?お手だと〜ッ!?)
「そうしないと本当に旦那だってことがわかんないでしょ?ほらほら♪」
(この野郎〜、調子にのりやがってッ!これでも喰らえッ!)
「いッてッ!」
カレルの手のひらをしたたかに引っ掻いてやり、気分がスッとした瞬間、
「アルベル様ッ!!」
というアランの叫びとともに、掻っ攫われるようにしてその腕に抱きこまれた。
(なななな、何しやがる!放せッ!!)
アルベルは尻尾を振って激しく抵抗し、何とか逃れようとバタバタと暴れた。だがアランはますますしっかり抱きしめた。
「もう…なんでもいい…無事でさえいて下されば…!」
泣いてる。
それを感じて、アルベルは抵抗をやめた。カレルがその様子を興味深そうに見ている。
(けッ!見るんじゃねえよ!)
もしも人間だったら、盛大に赤面していることだろう。アルベルはぷいっとそっぽを向いた。すると、カレルはにやっと意味深に笑い、
「じゃ、…何かわかったら知らせますんで。」
と引っ掻かれた手の平を舐めながら出て行った。