「………。」
ルム車から降りたカレルは、久しぶりの我が家とも言うべき修練場をじっと見上げ、大きな溜息をついた。
(とうとう着いちまったな…。)
何の解決策も思い浮かばないまま、とうとう修練場についてしまった。これ以上ここに突っ立っていたら、ルム小屋にルム車を置きに行った部下が戻ってきて、また不審に思うだろう。もうこれ以上の時間稼ぎは無理だ。カレルは意を決して歩き出した。
(よし!取り合えず、まずは旦那に挨拶に行く!それでそのまま溜まりまくってるに違いねぇ雑事に取り掛かって、気付けば日付が替わってたっつー流れで一日目はやり過ごして…)
ところが。入り口から入って、最初の角を曲がろうとして、あろうことかライマーとばったり鉢合わせてしまったのだ。
「あ…!」
カレルは内心飛び上がった。心臓が跳ね上がり、激しく動悸を打ち始めた。顔がみるみる上気してくるのがわかる。それを悟られまいと、顔を伏せ、急いできびすを返した。心の準備が整ったらまた出直すとして、とにかく今はここの場から逃げ出そうとした時、
「カレル!」
ライマーの声に呼び止められ、カレルは仕方なく立ち止まった。
しかし振り返ることができない。こんな顔、絶対に見られたくない。この期に及んで、どこか隠れるところはないかと、必死で探している自分を馬鹿みたいだと思いつつ、せめて前髪で顔を隠そうとするも、短く切られてしまってはそれもできない。
(あーあ、だから髪を切りたくなかったんだ!)
焦って前髪を引っ張りながら、そう悔やんでいると、
「話がしたい。」
ライマーが静かに言った。
「ああ…」と、何とか返事を返すも、その声はかすれていた。背中を向けたままというのは明らかに変だと分かっていても振り向くことができない。どうしても。
そんなカレルの様子を察したライマーは、カレルの横を通り過ぎ、先に立って歩き出した。カレルはほっとしてライマーの背中を見上げた。あくまで普段通りライマー。それに対して、こんなにも取り乱してしまっている情けない自分。否応なく経験の差を感じさせられる。
(ちっ!大人の余裕みせやがって!)
自分の方が年上なのに。半年だけ。カレルはぶつくさと思いながら、後に続いた。
ライマーが自室のドアを開けて待っている横を、カレルは顔を伏せながら通り過ぎた。
取り合えず、まず何て言おうか。カレルはライマーに背を向けたまま迷っていると、ライマーはドアを閉めるなり、
「すまん!」
と地面に座した。
「!?」
カレルは振り向き、土下座して頭を下げているライマーの姿を見つけると、表情を凍りつかせた。
ライマーはあの事を後悔していた。
そうと知ったカレルは、頭を殴られたようなショックに陥った。
ライマーは頭を下げて地面を見つめたまま、じっとカレルの言葉を待った。
『ライマー!』
いつもだったら笑顔で駆け寄って来てくれたはずなのに。カレルは自分を避けようとした。そして目を合わせるどころか、こちらを向いてもくれない。
当たり前だ。あれだけの事をしたのだから。許されるはずがない。
コツリコツリ…
カレルの足がライマーの横を通り過ぎていった。無言のまま。
話すことは何もない…カレルの意図をそう受け取ったライマーは、それも仕方のないことだと、じっと目を伏せ、唇を噛み締めた。
カチャリと音がした。それがノブを回す音ではなく、鍵を掛ける音だと気づき、ライマーは顔を上げた。急いで振り向こうとしたが、「振り向くな!」と鋭い口調で命令され、仕方なくそのまま前を向いた。
「何で謝るんだ?」
背後から聞こえてくるカレルの声には静かな怒りがあった。それを感じ取ったライマーは、ぐっとこぶしを握り締めた。もう終わりかもしれない。人生において、これほどの恐怖を感じたことはない。できることなら逃げ出したい。全てなかったことにしたい。カレルが笑ってくれたあの頃に時間が巻き戻ればどんなにいいか。一生を掛けて詫びる覚悟で、震える心をなんとか奮い立たせた。
「あれは…度を越していた。」
「度を越す?…なんで?お前はそうしたかったんじゃねえのか?」
「違う。」
あそこまでするつもりはなかった。そう言う前にカレルが激高した。
「違う!?じゃあお前は、どういうつもりでッ…ッ…!」
抱いたのか。なんでもない言葉のはずなのに、続きを口にすることができなかった。するとライマーが再び言った。
「すまん。」
「謝るなッ!!」
カレルは感情を持て余し、激しく髪を掻き毟った。
「お前はいつもそうだッ!親友だとかなんとかいいながら、お前からは絶対に距離をつめてこねぇ!こっちが近寄れば、すかさず距離をとりやがって!俺を受け入れる気がねぇなら、最初から勘違いさせんな!」
その思ってもみなかった言葉に、ライマーは戸惑った。カレルが怒っているのは、自分の行為に対してではない…?
「そういうつもりじゃ…」
ライマーは振り返り、カレルを見上げた。するとカレルはギッと睨みつけてきた。
「そんなつもりじゃねぇって?じゃ、どういうつもりだ!?」
100パーセント受け入れている。断じて勘違いなどではない。ただ、時折カレルから距離をとったのは自分を抑えられなくなりそうだったから。
(もしかして、それがカレルを傷つけていた…?)
ガラスの瞳には涙が浮かび、激しい怒りと悲しみに満ちていた。
「人には何でも話せと言うくせに、自分は本心を何一つ言わねぇ!俺の為に何だってするとか言うくせに、俺が本当にして欲しかったことは全ッ部拒絶したッ!」
ライマーはここに至ってやっと、自分の間違いを悟った。カレルの望むことは何だってしてきたつもりだった。だが、実際はそうではなかった。カレルが本当にして欲しかったこと、それは…
「あれが初めてだ。お前が俺の望んでたものをくれたのは。」
カレルの目から涙がこぼれた。カレルは顔を手のひらで覆った。
「いつもお前が無理してんじゃねぇかって…本当は嫌なのに俺の為に無理して…けど、あん時だけはそうじゃねぇって…お前が本気でそうしたいんだって…初めて…初めて感じれたのに…」
『くれぐれもカレルさんの為だ、なんて思わないでくださいよ?』オレストは何度も念を押していたではないか。自分は何にもわかっていなかった。
「それを今更、違うだと…!?」
カレルはガクリと床に膝を突いた。怒りが涙とともにとめどなく溢れてくる。声をあげて泣き叫びたい。
ライマーは急いでカレルに近寄り、手を伸ばした。
「カレル…」
「触るなッ!!」
触れようとした手を弾かれた。今まで見せたことのないほどの激しい拒絶。だが、ライマーは構わずカレルの腕を掴んだ。
「離せッ!!」
ライマーは抵抗するカレルをぐいと引き寄せた。そして、カレルの目を見つめながら、低く、だが力強い口調でハッキリと言った。
「お前が欲しい。」
「ッ…!?」
ライマーからの予想だにしない言葉に、カレルは目を見開いて固まった。カレルの頬から、涙の雫がポツンと落ちた。ライマーはふっと自嘲し、カレルの透き通った瞳から目をそらした。
「それが俺の本性だ。親友面して、裏ではそんな欲望を抱いている……最低な人間だ。」
カレルはつかまれたままの腕に目を落とした。ライマーはそれをはずそうとしない。
「お前は俺の尊敬であり誇りだ。しかも親友で男だ。お前を裏切るようなことは決してできない。俺は必死で自分にそう言い聞かせた。」
煩悩を捨てようとどれだけ努力しても無駄だった。抑えれば抑えるほど感情は膨れ上がり、自己嫌悪に陥りながら何度自分を責めたか。
「そうやって自分の本心から目をそらし、蓋をするので精一杯で、俺は…お前のことをちゃんと見れていなかった。」
ライマーはカレルを正面から見つめた。
「今度こそ、目をそらさない。お前の声を一つ残らず受け止める。だから頼む!どうか傍にいさせてくれ―――」
しんと沈黙がおりた。ライマーは祈りながらカレルの言葉を待った。すると、
「お前に求められたい…。」
カレルはぽつりと言った。
「俺が頼んだから、っていうんじゃなくて…もしそうなら、もう俺には近づかないでくれ…。期待する度に拒絶されるのはもうたくさんだ…」
「すまなかった…。」
ライマーはカレルを抱きしめた。
「本当はこうしたかった…ずっと…」
ライマーが耳元でそう言った。
カレルが欲していたのはそれだった。
カレルの目から次々と涙が溢れ、そのまま声を殺して泣き始めた。