「…もう大丈夫なのか?」
ライマーが心配そうにカレルの顔を覗き込んだ。カレルはぐすっと鼻をすすり、頷いた。こんなに泣いたのは生まれて初めてだ。泣くだけ泣いたらすっきりした。
「服が濡れちまったな。」
カレルはライマーの服を自分の袖で拭こうとしてきた。ライマーはそれを直前で止めた。
「服なんかどうでもいい。自分の心配をしろ。」
カレルはいつもそうだ。自分のことより、まず人の心配をする。カレルは盛大に泣き腫らした顔を手のひらで撫でながら溜息をついた。
「はあぁ…。こんな顔、人には見せられねぇな…。」
「このまま部屋で休むか?」
だがカレルは首を横に振った。
「いや、旦那にだけは挨拶しねぇと。無理をきいてもらったんだ。…仕事もたまってるだろうし。」
その台詞にライマーは呆れた。
「自分の心配をしろと言ってるのに…。」
するとカレルがちらっと笑みを浮かべた。
「!」
カレルが笑ってくれた!その嬉しさと安堵から、ライマーの胸に熱いものがこみ上げ、目に涙が浮かんだ。まばたきで急いでそれを消しながら、ライマーは固く心に誓った。
これから先、この笑顔のために自分の全てを捧げよう、と。
「遅いッ!」
カレルが団長室のドアを開けるなりアルベルの怒号が飛んできた。カレルは深々と頭を下げた。
「すみません、ちょっと色々あって…」
アルベルは相当イライラを募らせていた。カレルのことだから、きっと朝一番にカルサアに帰ってくるだろうと思いきや、待てど暮らせど姿を現さない。何かあったのかと心配して、使いの者をやってみれば、もうここに帰ってきているという。自分に挨拶もなしに、一体今までどこで遊んでいたのかと追及しようとしたのだが、カレルの顔を見た途端、そんな気分は一瞬で消えた。
「…一週間じゃ足りなかったか?」
「いえ、お陰さまで。もう大丈夫です。」
「それが大丈夫って面か?」
カレルの泣きはらした顔など、初めて見た。アランといい、クレアといい、ここ最近立て続けに『泣き顔』に遭遇している気がする。泣き顔はどうにも苦手だ。つい相手に甘くなってしまうから。『甘さ』や『優しさ』など、自分には似合わない。
『旦那は優しい人ですよ。』
…カレルはそう言うが。カレルは照れくさそうに笑ってみせた。
「今まで涙も出なかったんで。泣いた分、楽になった気がします。」
アルベルはじっとカレルの目を見た。目が合うと、カレルはさっと目を伏せたが、何となくもう大丈夫である気がした。
「早速仕事に取り掛かりますね。」
カレルはアルベルの視線から逃げるように、自分の机の方に行きかけたが、途中でぴたりと立ち止まった。
「…。」
「どうした?」
アルベルが気付いた。カレルは慌てて、
「あ…いや…何でも…」
と言い掛けたが、「いや、やっぱり。」と振り返った。
「旦那は、お父上のことがずっとトラウマだったでしょう?」
カレルは今まで一度もその話題に触れてこなかった。アルベルが触れて欲しくないというのを知っていたから。
「どうやってそのトラウマを乗り越えたんですか?」
アルベルはそれを聞きながら、自分の心境の変化に気付いた。以前はその話題が上がるたびに心がかき乱されていたのが、今は世間話でもするかのように落ち着いている自分に。まさにこの問いかけが、アルベルにそのことを気付かせたわけであるが、それを説明するのは面倒くさい。でもまあ、カレルの泣き顔に免じて、アルベルは素直に答えてやることにした。
「別に乗り越えてねぇよ。」
「え?そうなんですか?」
カレルは驚いた。以前に比べて、アルベルが明るくなったのは、きっとそれを克服していったからだと思っていたからだ。するとアルベルは言った。
「考える暇がなくなっただけだ。」
それはひとえにアランのおかげだ。振り返ってみれば、アランが現われてから怒涛の毎日だった。最初は自分に向けられるアランの気持ちに困惑し、やがて次第にそれが心地よくなっていく自分に戸惑い、アランの笑顔を見たいと思う自分に気付き、そうやっていつしか自分の内面に真剣に向き合うようになった。決してあの事を忘れているわけではない。でも、それよりも今、目の前のアランと自分とのことでいっぱいなのだ。でも、そこまではカレルに言えない。アルベルは自分のあまりの言葉少なさに、何か付け足そうかと思ったが、しかし、アランの事を避けては語れない。別にカレルになら言ってもいいか、いや、でも変に気をまわされるのは嫌だ。どうしようかと悩んでいたが、カレルはどうやらその一言だけで納得してくれたようだ。
「考える暇…ですか。」
言われてみれば自分も、アレ以来、ライマーのことばかり考え、昔の事を思い出す頻度が劇的に減っていた。こうして癒されていくのだろうか。
「有難うございました。」
カレルはにっこり笑って礼を言うと、久々に自分の机についてその座り心地を確かめ、仕事に取り掛かる体勢をととのえた。
「さてと、何から始めますかねぇ?」
カレルのいつもの調子。それを聞いて、アルベルはすべてがあるべき位置におさまったと感じた。