ライマーがアーリグリフを訪れる前日―――
カルサア修練場の一室で、前副団長派が喧々諤々とやり合う中、ライマーはそれらを黙って聞きながら、忍の一字で座っていた。
カルサアの修練場の敷地は広大だ。元は遺跡であったものを修復し、団長派と副団長派で二つに分けて使っている。団長派側の方は、兵士達の衣食住を第一に保障するという方針から、修復が殆ど済んでいるが、副団長派側は手付かずのままだ。しかもシェルビーというトップを失ってから、何も機能していない。そんなところへ、ライマーは数人の部下のみを連れて、単身やってきた。そして、旧体制を引きずった副団長側の惨状を目の当たりにしたライマーは、まず何から手をつけるべきかで悩み、とりあえず幹部達を集めた。これまでの状況を知り、それぞれ人物を見定めるためだ。ところが…
「そもそも、そなたが言い出したことだろう!?」
「わ、私は命令されて仕方なく…」
「どうだか!それ相応の見返りがあったでしょうに。」
会議を始めてみれば、ただの言い訳、意地の張り合い、責任のなすり合い。ライマーは口を挟むことなく、ただそれらを聞き流している。もう何時間経っただろうか。最初は勢いのあった面々にもそろそろ疲れが見え始めた。だが、まだだ、とライマーは構えなおした。まずはすべてを吐き出させてからだ。
(カレルは大丈夫だろうか…。)
油断すると、ついカレルの事が頭に浮かぶ。塔から飛び降りようとしたカレル。アーリグリフに行く前はだいぶ元気になってきたと思っていたのに。心配でならない。だが、今は医者や部下に任せるしかない。自分が傍にいたところで何ができるわけでもないのだ。とにかく今は自分のすべき事に集中すべきだ。そう思ってじっと耐えていると、部下からの緊急の報告が入った。カレルに何かあったかと、一瞬血の気が引いたが、違った。
「副団長、ご実家から使いの方が来られています。」
実家から?これは余程の事だ。
「用件は?」
「それが、お母上がご危篤との事で。」
視線が一斉にライマーに集まった。ライマーはそれを感じながら言った。
「すぐ行くと伝えてくれ。」
そして、しんとこちらを窺っている一同を見渡して言った。
「続けて。」
すると、そのうちの一人が言った。
「お帰りになった方がよいのでは?」
「まだまだお母上が恋しいお年でしょうに。」
ざわざわとあざ笑いが広がる。自分たちよりもずっと若いライマーに対する嫌味たっぷりだ。だが、ライマーはそれを「この会議が終わったら。」と、さらりと流した。
「この調子じゃあ、いつになるやら…。」
まったくだ。思わず喉まででかかったが、ぐっと飲み込んだ。
「私は今まで親不孝ばかりしてきたので。せめて最期くらいはそうならないよう、是非ご協力願いたい。」
はるかに年下であるライマーの厳然とした態度に、一同は黙り込み、ばつが悪そうに互いの様子を探り合った。
会議が終わると同時に、ライマーは飛竜にのって実家に駆けつけた。だが、間に合わなかった。
「奥様は最期までお坊ちゃまのお名前を…う…ううう…」
長く母の世話をしていたメイドがエプロンに顔を埋めた。ライマーは冷たくなった母の顔をじっと見つめた。記憶の中の姿よりも、ずっと小さく年老いていた。
軍に入ると決めてから、それを猛反対した親とは縁を切った。だが先の戦争が終わって、カレルにせっつかれ、母に無事を知らせるために一度だけ帰った。その時、母はライマーの姿を見るなり、駆け寄って涙を流した。会いたかった、寂しかったのだと母は何度も言った。ライマーは変な意地で母にこんな思いをさせてしまった自分を恥じた。これからは少しずつでも 親孝行しよう。そう思いながら、忙しさにかまけて、結局何もできなかった。
(母さん…。)
ライマーはそっと冷たくなった母の手を握った。
バタン!
その時、勢い良くドアが開いた。
父だった。
「エリーゼ…!」
父はライマーのことも目に入らない様子でよろめきながら妻の亡骸に近寄り、くずれるように咽び泣き始めた。
「…エリーゼ…エリーゼ…」
この父にも愛情があったのか。父はいつも母に冷たく当たっていた。ライマーは黙って、老いて丸く小さくなった父の背中を見つめた。
家族だけのささやかな葬儀だった。棺おけにメイドが花を手向けた。白いユリの花だ。
「奥様はユリがお好きで…」
そんなことなど何一つ知らなかった。ライマーはユリの花で彩られた母の顔を見下ろした。
この人の人生は一体何だったのだろう。殆ど帰ってこない不貞な夫に、勝手に縁を切って出て行ってしまった親不孝な息子。一人この家に取り残されて、何を感じていたのだろう。
ライマーの目から、堪えていた涙がこぼれた。
母を埋葬し終えた後、一晩父と実家で過ごした。父と杯を交わすのは初めてのことだった。
その中で父は、妻を愛していたとぽつりと告白した。家に帰らなかったのは父親の選んだ相手と無理やり結婚させられたことへの反発だった、と。エリーゼはこんな自分をずっと待って、たまに帰れば喜んで迎えてくれた。本当はそれが嬉しかった。しかし今更どの面下げて戻ればいいのか、何年もの間ずっと迷い、妻に対する罪悪感に苦しんでいたという。せめてもの罪滅ぼしで、生活に困らないように金を送り続けていたが、こんなことになるのなら、そんな回りくどい事をせずに、はやく妻の元へ帰っていればよかったと言って、父はまた泣いた。
『お前は親を親ーっ!て思いすぎてんだ。』
いつかカレルに言われたことを思い出す。父を一人の男としてみたとき、ライマーはようやく父のことが理解できた。父は逃げ出したかったのだ。偉大で厳しかった自分の父親から。父親の期待に堪えられない自分への劣等感。それを振り切るように家を飛び出した。それなのに、生まれた子供が父親そっくりに自分を非難する。どんな思いだっただろうか。
「お前は親父そっくりだ。」と、ことあるごとに忌々しげに言っていた父。
だが、以前のような反発はもうなかった。
翌朝、ライマーはカルサアに帰ろうと飛竜に乗った。だが、途中でアーリグリフへと進路を変えた。
今の漆黒の状況を考えると、カレルと不必要に接触すべきではない。秘密裏に何らかのやり取りがあったと副団長派に思われては困る。しかしそんなことはもうどうでもいいように思えた。とにかく会いたい。これを逃したら永遠に会えなくなってしまうかもしれない。そんな不安がライマー を後押しした。
しかし、やはり城の前で立ち止まった。城へ入るには通行許可を得なければならない。何の用で城へ入るのかを問われる。そうすればカレルに会ったという証拠が公けに残ってしまう。かといって他の理由など思いつかない。
『副団長』という肩書きがこんな邪魔をしようとは。だが、愚痴を言っても仕方がない。ライマーは諦めて元来た道を帰りかけて、「あの雪の城の跡はどうなっているだろう?」とふと思った。祭りが終わると同時に解体されたはずだ。
そうやってなんとなく足が向いた先に、人影が見えた。あの後姿は―――
「カレル!」
呼びかけると、カレルは驚いた顔をして振り向いた。まるで幽霊でも見るかのようにこちらを凝視している。それはそうだろう。自分は今、カルサアにいるべきなのだから。近寄ってすぐ、カレルのあまりに薄着な格好に気付いた。
「そんな格好で、風邪ひくぞ?」
そう言ったとき、丁度、部下がカレルのコートとマフラーを持って戻って来た。ライマーはそれを受け取ると、部下達を下がらせた。ライマーはカレルにコートを着せ、マフラーを首に掛けてやりながら聞いた。
「具合はどうだ?」
そう声をかけたがカレルは笑顔を見せず、目を逸らして、
「まあ、ふつー、だな。」
と言いながら、さりげなく横を向いた。表情を見られたくないのだ。だが、いつもだったら髪の毛で完全に隠されていただろう表情が、今は良く見える。その横顔に深い翳りがあることも。
髪で顔が隠せなくなるからと、切るのを嫌がっていたのに。ピアスも全て外されている。穴だらけの耳が痛々しい。一体何があったのか。そして、何を考え、何故こんなところに立っていたのか。聞きたいことは山ほどある。だが下手なことを聞いたらまた口を閉ざしてしまうかもしれない。まずは答えやすい質問から…。ライマーはカレルの視線の先に目を向けた。既に新しい雪で覆われて わかり難くなっているが、そこだけ他より少し雪が盛り上がっている。雪の城があった名残だ。
「なくなると寂しく感じるものだな。」
「…そうだな。」
「夢がついに現実になった!」と大喜びしていたカレルの姿を思い出す。あの時はあんなに元気だったのに。
「もう少し残しておいても良かったかもしれないな。」
ライマーはそう言ってみたが、カレルは首を横に振った。
「ぱっと消えてこそ、夢の城だ。」
カレルはまだ幻の城を見ている。少し話題を変えてみる。
「髪…随分すっきりしたじゃないか。」
「隊長に問答無用で無理やり切られたんだ。『見苦しい』だとさ。お陰でスースーして落ち着かねぇ。」
カレルの横顔がちょっとだけ笑顔を見せてくれた。
「それより何かあったのか?カルサアからわざわざこれを見に来たわけじゃねぇだろ?」
逆にカレルが聞いてきた。だが、顔は前を向いたまま、一向にこちらを向いてくれない。
「ああ…いや…。」
ライマーは目を落とした。もし本当のことを話せば、カレルはまた我が事のように心配するだろう。そんな余計な負荷をかけたくなかったのだが、
「…なんか元気ねーし。」
カレルには気づかれていた。ライマーは素直に白状することにした。下手に隠せばカレルは余計気にするからだ。
「母の葬式の帰りだ。それで…どうしてもお前に会いたくなった。」
カレルがやっとライマーの方を向いた。その瞳にはライマーの悲しみを思いやる優しさが表れている。ライマーは安心させるように小さく笑って見せた。
「結局、親孝行できずじまいだった。」
「…そうか。」
カレルは視線を元に戻した。ライマーも同じ方向に視線をやる。見ているのは同じでも、見えているのは別のもの。また沈黙が流れた。雪がまたちらちらと降り始めた。ライマーが再び口を開いた。
「俺はいつもそうだ。プライドだのタイミングだのと、そんなどうでもいいことにこだわっている間に取り返しがつかなくなって、後で後悔する。」
そうライマーは自嘲した。棺おけにすがって泣いていた父と同じだ。カレルは前を向いたまま黙って聞いている。
「俺はもうそんな後悔はしたくない。今度こそ、つくづくそう思った。」
ライマーはカレルを振り返ると、ひと息に核心に触れた。
「なあ、カレル。一体、何があったんだ?何をそんなに苦しんでいる?」
カレルは目を伏せた。言いたくない。そう横顔に書いてあった。いつもだったらここで問い詰めるのをやめていた。だが、ライマーはカレルの腕をぐいと引き、自分に正面を向かせた。驚いてこちらを見上げてきたカレル を正面から覗き込んだ。
「少しでもいい。お前に関わらせてくれ。…頼む。」
その真摯さにカレルは圧倒された様子だったが、再び目を伏せてしまった。
「どうせ…」
「何?」
「どうせ拒絶するんだろ?」
「なんだと?俺は一度だってお前を」
拒絶したつもりはない。しかしそう言い切る前に、カレルは苛立った声でそれを遮った。
「嘘付け!」
思わず出た、鋭い口調に自分でも驚いたのか、カレルはすぐにそれを取り消した。
「ああ…いや…当然だ。無理に決まってる…」
どうやら情緒不安定になっているようだとライマーは感じた。
「何でもいい、とにかく少しでもいいから話してくれ!そうしないと俺にはわからない!」
それが届いているのか、いないのか。あまりにも黙り込むカレルに不安を覚えつつ、しかし、今度こそ絶対に諦めないと心に決め、言葉を代え、何度もそう説得していると、ある言葉にカレルがちらりと反応を見せた。だからライマーはそれをもう一度言った。
「お前の為なら、俺は何でもする。」
と。
「…なんでも?」
「ああ。」
すると、カレルはそれを目を伏せたまま言った。
「じゃあ……セックス。」