それまでよどみなく打っていたカレルの手が止まった。
「うーーん……。」
カレルは大きく唸ると、まず、ソファの肘置きに肘をついた。そして、足を手繰り寄せ、ソファの上で胡坐をかいた。最早王の前であるとか、対局相手がウォルターであるとかいう意識は吹っ飛んでいるようだ。
「無礼な!王の御前で…!」
王の後ろに控えていた執事が注意しようとしたが、王はそれを遮った。
「しかし…!」
「よい。」
王はカレルの様子を眺めてクスリと笑った。これ程の大声にもかかわらず、カレルの耳には何一つ届いていないようだった。碁盤を見つめながら指をカジカジと噛んでいる。王の前では極度に緊張し、まるでちょっとした身じろぎですら粗相になると思っているかのように、ひとつひとつの動作を慎重過ぎるくらい気をつけていたカレル。我に返って自分の粗相に気付いたとき、どんな反応を見せるか、それが楽しみであった。
厳しく慎重な競り合いの末、ウォルターの打った一手にカレルは満面の笑顔になった。勝利を確信した顔だ。カレルが打つ。すると、今度はウォルターが「うーむ。」と唸った。長考の後、一手打ったが、カレルはもう考えることなく、ぱちっと打った。そこで、ウォルターは幾度か頷き、
「ワシの負けじゃ。」
と負けを宣言した。カレルは嬉しそうに頭を下げようとしてそこでようやく、自分が行儀の悪い格好をしていたことに気付き、
「すっ、すみません…。」
と、飛び上がらんばかりの勢いで慌てて姿勢を正した。この場合、「すみません」ではなく、「申し訳ありません」と言うべきだったのだが、つい地がでたのだろう。頭を掻こうとしかけた手を急いで膝の上に置いた。そして、思い出したように、ソファに付いた靴の汚れを手ではたい。そんな期待以上の反応に満足しながら、王が言った。
「ウォルターが負けるとはな。」
「見事にしてやられましたわい。ここでこう受けるべきじゃったか。」
すると、汚れがまだ残ってないかを気にしていたカレルは、吸い寄せられるように碁盤に戻った。もうソファの事は忘れている様子だ。
「そうですね。そこに打たれたら、こうするしかなくて。」
カレルはさーっと碁石をその時点の形に戻した。パチパチパチッと碁石を並べて検討していく。
「こう来て、こうか。」
「はい、閣下の勝ちでした。それを防ぐには、ここに打っておくべきだったんですが、見落としていました。」
「成る程のう…それでここに誘ったか。」
「はい。そちらを捨てても、こちらで挽回できると思ったので。」
ウォルターは納得いったという風に頷いた。
「うむ。完敗じゃ。」
カレルは恐縮し、また頭を下げた。
その後の王との対局の間も、それが終わってお茶を飲んでいる間も、カレルはウォルターに何か言いたそうにしていた。そして、何度も躊躇って、とうとう退出するという間際になって、まるで初恋相手に告白する少女のように俯いてモジモジしながら、やっと口を開いた。
「あの…閣下、もし良ければ、またいつかお相手をして頂けませんか?…その、お暇なときに…。」
ウォルターはカレルの顔は知っていた。いつもアルベルの後ろに控えて、一切前に出てこようとしなかった。そんなカレルが、私用で声を掛けるなど、初めてのことだった。
「当然じゃ。負けたままというのは性に合わんでな。」
すると、カレルはぱあっと顔を輝かせた。まるで少年のようなその表情に、これがカレルの本質だ、と王は見抜いた。
カレルが退室した後、王はウォルターに言った。
「面白い男だろう?」
「アルベルと波長が合うわけですな。ワシも楽しみができましたわい。次は負けられん。」
「おい、お前達だけで楽しんで、俺の事を忘れるなよ?」
王とウォルターは笑い合った。