小説☆アラアル編---初恋(8)

コンコン

ノックの音と共に誰かが団長室に入ってきた。カレルは書類にサインをしながら、ノックされた時点でアルベルではないと判断したので、そのまま作業を続行した。部下の誰かがそこで用件を言うはず。だが相手は何も言わずにドアを閉めた。カレルは不審に思って目を上げた。そこに立っていたのは、

  「ラ、ライマー!?」

カレルはうろたえた。ライマーとはまたしばらく会えないだろうと勝手に思い込んで、完全に油断していた。そういえば、さっきのノック仕方はライマーのものだと一瞬思ったのに、思い込みからその判断を却下してしまった。

  「な、何だ?な、何でここに?」

どうしよう、何の心の準備も出来ていない。慌てて作業に戻るふりをしながら平静を取り戻そうとするも、サインが変な方向に踊りまくる。書類の内容が頭に入ってこない。自動的にサインしかけて、この書類にはしっかり目を通さなければならない事を思い出し、途中で何とかサインを思いとどまった。これはまずい。頭を使わなくても出来る何か別の作業を!別の、何か別の…何かないか!何か!何か!

書類を無意味にめくりながら、頭には昨夜のベッドでの事と、その続きの事しか浮かばない。だのに、今日に限って残業が山のようにある。しかも、これはどうしても今日中に終わらせなければならないものだ。

  (ちくしょー…なんでこんなときに限って!)

そんなカレルの様子を見ていたライマーは言った。

  「忙しそうだな。」

  「ま…まあな。」

カレルは思わず出そうになった溜息を飲み込み、唇をくっとつむった。がっかりするという事はつまり期待していたという事であり、それを悟られたくなかった。

  「…。」

ライマーが沈黙している。それに気付いて目を上げた。ライマーはじっとこちらを見ていた。目が合った。カレルの心臓がドキンと弾んだ。

だがその瞬間、ライマーは固い表情で目を逸らした。

カレルは天国からいきなり地獄に突き落とされたような、これまでにないショックで心を揺さぶられた。

こうしたことは今までもよく起こった。それは一瞬の事だ。だがその一瞬に浮かんだ不快の表情を見つける度、カレルは深く傷ついた。

何故そんな表情で目を逸らすのか、その答えを聞くのが恐ろしくて、今まで一度もその理由を尋ねたことはない。

『お前が欲しい。』と言ったのはあれは嘘だったのか?ベッドではあんなに優しく抱いてキスしてくれたくせに。

と、その時、ライマーがかすかに笑みを浮かべた。

  「…何だ?」

カレルがライマーに笑った理由を尋ねると、

  「いや…なんでもない。」

とライマーは誤魔化した。人にこんなショックを与えておいて、自分は笑い、そしてその理由を言わないなど許せない。カレルは胸にこみ上げた激しい怒りをぐっと抑え、いつもの調子を保つ。

  「ほらな。」

  「何だ?」

  「人には『何でも言え』と言っといて、お前は言わねぇだろ?」

  「そういうつもりじゃない。」

  「はっ!都合のいい台詞だな。次、俺もお前になんか言われたらそう返すか。『そいういうつもりじゃない』ってな。」

感情を隠すのは得意なはずだったのに、どうしても怒りがフツリフツリと表に出てしまう。ライマーはそれを感じ取ったようだ。

  「わかった、わかった。…ただ、長年の癖が出たのが可笑しかっただけだ。」

  「癖?何の?」

ライマーはその返事を躊躇った。カレルはとうとう怒りを抑えきれなくなった。

  「言えよ!人に偉そうに言うなら、まず手本を見せろ!」

ライマーは溜息をつき、観念したように口を開いた。

  「要するに…まあ…その……………下心を隠す癖、だ。」

  「…えっ?」

その予想もしなかった答えに、カレルは完全に虚を突かれた。ライマーが近寄ってきた。

  「もう隠す必要はないのに、ついそうしてしまう。…今までずっとそうしてきたからな。」

ライマーの手がそっとカレルに伸びてきた。

  「!!」

ライマーは、びくりと身をすくめたカレルの頬を優しく撫で、親指で唇に軽く触れた。この唇が堪らなく欲しくなるのだ。

  「時々、目が離せなくなるんだ。どんなに気をつけていても。」

カレルはカアッと赤面し、うろたえながら目を伏せた。指一本動かせない。だが心臓は胸を突き破りそうな勢いで動悸している。すると、自分の衝動を感じたライマーが、

  「まずいな…。」

とつぶやき、カレルから名残惜しそうに手を離した。

  「俺はもう行く。無理はするなよ。」

  「あ…ああ…。」

カレルがやっとの事で返事をすると、ライマーはカレルの髪をさらりと撫でてから部屋を出て行った。

ライマーが出て行った途端、カレルはどっと脱力し、机に突っ伏した。触れられた頬と唇が熱い。動悸が止まらない。しばらく何も考えられなかった。



  『時々、目が離せなくなるんだ。どんなに気をつけていても。』

ライマーに、そんな風に見られていたとは知らなかった。それを隠すために、ああして目をそらしていたのだ。同性愛や性的な話を一切拒絶したのもそのせいだ。

カレルは腕を枕にしながら、過去のライマーのそうした反応を一つ一つ思い出していった。

キスしようとしたら全力で抵抗されたこと。「そんな格好でうろうろするな!」と服を投げつけられたこと。ふざけてセックスしてみないかと言ったらこれ以上ないくらい厳しく拒否されたこと。裸で抱きついて、物凄い勢いで振りほどかれた事。

思い出したくもなかったそれらの出来事が、今、全く別の意味を持った。あの時も…あの時も…ライマーは…。

  「…そーゆーことだったのか……。」

ここに至って、カレルはようやく気付いた。ライマーがずっと苦しんでいた事に。

  『お前は俺の尊敬であり誇りだ。しかも親友で男だ。お前を裏切るようなことは決してできない。俺は必死で自分にそう言い聞かせた。』

ライマーは二人の友情を守ろうと、ずっと自分の感情を無理やり抑えつけていたのだ。それなのに自分はそれを挑発するような行動をとってきた。それがライマーにとってどれ程、残酷なことだったか。

カレルは自分を責めるように唇を噛み締めた。

今まで自覚していなかったが、自分は心のどこかでライマーのその感情に気付いていた気がする。そして、それを無意識に確かめようとして、それが過剰なスキンシップに繋がり、それでライマーはますます必死で隠そうとした。

カレルはライマーが隠そうとしたそれがずっと欲しかった。

そして、今、ライマーはそれをくれた。それ以上、何を望む?

拒絶されて傷ついたと思っていたのは一方的な思い込み。それなのに、どうして「もう傷つきたくない」と、いじける必要がある!?

カレルは立ち上がった。はやる気持ちを抑えきれず、早歩きが小走りになり、やがて駆け出した。

そして、開けるのが怖くなっていたライマーの自室のドアを躊躇いもせずに開けた。

  「!!」

ノックもなしにいきなり開いたドアに、ライマーが驚いてこちらを見た。カレルは息を切らしながら、まっすぐライマーを見つめた。

何を言うか何も考えず、ただ衝動のままにここに来てしまったカレルは、必死で文章を組み立てようとしたが、それが出来ないことに気付いた。考えようとすると何故か頭が空回りしてしまう。

  「どうした?」

ライマーの声にドキンと心臓がはね、その拍子に頭の中で何とか出来上がろうとしていた文章がバラバラに崩れてしまった。この動悸は走ってきたせいばかりではない。ライマーが待っていると思うとますます焦った。手を弄り、爪をカジカジと噛みながら、取り合えず思い浮かんだ言葉を口にした。

  「俺は!…ッ……そのッ……すッすすげぇ怖いんだ…そッ…そのッ………おッお前に拒否…される…のがッ…」

その唐突な語り口。そして、どもりながら必死で口から言葉を押し出そうとしている姿。普段、立て板に水のごとく理路整然としゃべるカレルの、いつもとはあまりに違う様子に、ライマーは内心戸惑った。

だがその時、ライマーの脳裏に、ある直感がひらめいた。これは、心の奥底にずっと隠れていた『本当のカレル』の言葉なのだ、と。カレルは今、心を開こうとしているのだ。

  「ッ…!」

カレルは自分の手の甲に噛み付いた。それは心を落ち着かせようとする無意識の行動だ。しばらくそうして、また言葉を発した。

  「お前に……きッ…き嫌われたく…ねぇから…。」

カレルを嫌う?そんな事は有得ない!ライマーは思わずそう口にしかけたが、寸でのところで飲み込んだ。ここでカレルの言葉を遮ってしまったら、二度と聞けないかもしれない。

  「ほッ……本当はッ…そのッ…いッ…今まで通りに…せ、せせ接してぇんだけど……けッ…けどッ!なッ何かっ…こッ…怖くなってて…」

そこまで言うと、カレルはほうっと肩の力を抜いた。しーんと間が空いた。言いたかったことを言い終えたのだと感じたライマーは、そこで初めて口を開いた。

  「どうして?」

  「さあ…?」

カレルはもう、どもらなかった。だが顔を背けたままだ。その理由はすぐにわかった。

  「何でか…お前の顔をまともに見れねぇし…こんなん初めてで…自分でもおかしいってわかってんだけどな……なんでこんな…。」

その頬は赤く上気している。その仕草や雰囲気の全てにカレルの隠し切れない気持ちが表われている。ライマーは駆け寄りたい衝動をこらえ、

  「カレル。」

と、両手を広げた。カレルは目を伏せたまま、だが素直に近寄ってきた。そして、ライマーの身体に腕を回し、胸に頭を預けた。ライマーはそれを万感の想いで抱きしめた。

その瞬間、二人の間で世界が変わった。

そこにあるのは、ただお互いの存在だけ。

そして、至福―――

どれくらいそうしていたのか。時間の感覚は完全になくなっていた。時間を知らせる鐘の音でそのことに気付いた。何も考えずただそうしていたことに。

  「今夜―――」

一緒に過ごそう、ライマーがそう言おうとした時、ノックの音がした。

ライマーは軽く舌打ちした。嫌な予感がする。カレルがライマーからさっと離れて背を向けた。両手の平で顔をこすっている。人に顔を見られたくないのだろう。

  「どうぞ。」

ライマーがドアの外に声を掛けると、シキが入ってきた。

  「副団長、ご足労願えますか。」

  「19時までと言っていたはずだが。」

するとシキは淡々と言った。

  「緊急事態…と言えなくもない事態です。」

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