会議が終わる頃合を見計らって、アランの部下が紅茶とチョコチップクッキーを持ってきた。
そのタイミングの計り方は実にスマートだ。
「試作品です。どうかお味見を。」
祭で売りに出す為に、アランがレシピを提供したものだ。カレルはウキウキしながら散らかしていた書類を片付けて場所を空け、部下はそれに恐縮しながらお行儀よくカップとクッキーをのせた皿を置いた。これがアランのクッキー。それを口にできる幸運に、クレアは思わず手を合わせて小さな歓声を上げた。だが、アランはクッキーを一目見るなり冷ややかに言った。
「何故、このようになるのです?」
場がシンと凍りついた。いい出来だと思っていただけに部下は焦った。
「いえ、その…レシピ通りにした…つもりなのですが…」
「あの通りにしたなら、こうはなりません。」
「は、はい。申し訳ありません。」
部下が急いで引き下げようとしたのをカレルが横から二つひょいとつまんだ。一つをクレアにも渡しながら、もう一つを自分の口に放り込んだ。
「美味いですよ?なぁ?」
クレアも一口食べて同じ感想を抱いた。ざっくりとしたサブレのようで美味しい。控えめな甘さがチョコレートの甘さとマッチして後を引く。
「え、ええ…とても美味しいです。」
するとアランはさらりと言った。
「そうですか。でしたら、それでいいのでしょう。」
それでいいとはどういうことなのか。アランの言葉をどうしても良い方に解釈したい思いがクレアの思考力を鈍らせる。
(ひょっとして、どうでもいいということ…?)
まさか、という思いでアランの横顔を見ていると、カレルが二つ目のクッキーを取りながら、口を開いた。
「これをアラン隊長のクッキーとして売っていいんですか?」
すると、アランはチラリと不満の色を見せた。カレルはその反応を一瞬意外に思った。
(人からの評価には無関心なのかと思ってたけどな。)
だが、すぐにそれは違うと思い直した。
(いや、違う、自分が関わる以上は完璧じゃねぇと許せねぇのか…。)
カレルは密かに書き綴っている人物辞典のアランの頁に、新たに書き加える文面を考えながら言った。
「お手本を見せて下さいよ。本物がどんなのか知りたい。」
そう言ったのは勿論好奇心のためだったが、それ以上にクッキーを持ったまま途方にくれている部下の為だった。部下は解決の糸口を得て、急いで頭を下げた。
「お願いします!」
この面倒な展開を呼び込んだカレルを、アランは不快そうにキラリと睨んだ。その目をカレルはじっと凝視した。普通こうしたら、相手はたじろいで視線をはずしたり、逆に視線を外すまいとムキになったりするものだが、アランはそれとは全く関係なくカレルの目を見返してくる。
(こういうとこに違和感を覚えんだよな。)
などと、アランの人とは違う反応を分析しながら、カレルは三つ目のクッキーを取り、更に駄目押しをした。
「作り直して、それが隊長の気に入らなかったらまた作り直しでしょ?この財政難においてそんな効率の悪いことを」
すると、アランの目に浮かんでいた色が一気に苛立ちに変わった。が、それは一瞬で、
「…いいでしょう。」
と言ったときには、再びいつもの色に戻り、ごく自然に視線が外された。
アランが厨房に入った途端、そこにいた者達は一斉に姿勢を正した。ぴりぴりと空気が張り詰める。
アランが上着を脱ぎ、袖を捲り上げている間、部下達が素早く動いて準備していく。調理台の上に材料や用具が全て等間隔にきちっと並べられる。無駄な動きは一切ない。
「うーん、漆黒とは大違い。」
カレルがつぶやいた一言に、クレアはクスッと笑った。確かに大違いだ。
クレアがアーリグリフで生活するようになって、外側から見るのとは全く違ったアーリグリフ側の事情が色々と見えてくるに従い、アーリグリフに対する見方も心情も変わってきた。今では、厳しい環境の中でも細々と忍耐強く生活している国民を自国シーハーツの民同様に愛するようになっていた。
中でも一番大きく変わったのは漆黒への感情だ。漆黒が団長派と副団長派に完全に分裂している事、ヴォックスと手を結んで残虐非道の限りを尽くしていたのは副団長派の方で、団長派がそれを邪魔する形で度々それを阻止してくれていた事など、そういった内情を知るにあたって、クレアは団長派の漆黒に対しては好意的になっていた。そしてつい最近、団長派の幹部達と話をする機会があり、それで益々彼らの事が好きになった。
彼らが舞踏会用のドレス(!)の採寸の為にアーリグリフに来たときだ。それより以前の、クレアの部下ユーリィと漆黒の青年との結婚式の時にも会って、顔と名前は見知っていたのだが、その時は無礼講ということで、誰がどの地位の人間なのかは一切紹介されなかった。その徹底振りには驚かされたものだが、まさかクレアの若手の部下達に気軽にいじられていた青年が幹部の一人だったとは思いも寄らなかった。人懐っこい彼は早速クレアに話しかけてきた。楽しく会話をしているうちに、ひょっとしてこちらを退屈させないようにしてくれているのではと、ふと気付いた。そして、その笑顔の奥に潜んだ才気を見つけてから、それは確信に変わった。この青年は只者ではない、と。その他の者達も皆それぞれ個性的で、曲者ぞろい。そんな中で、皆に共通していたのは温かさ。彼らの間にはまるで家族のような強い結束を感じた。そんな彼らの部下達はやはりのびのびとしていて、この疾風のような息の詰まりそうな緊張感はなかった。
疾風はアーリグリフ城に駐在しているので、同城の一室に仮住まいをしているクレアは自然と疾風の兵士らと接触する機会が多い。皆礼儀正しく紳士的で、最初のうちは流石アランの部下だと感心していたのだが、やがてそれは表面だけである事に気付いた。一見洗練されたように見える服装も態度も、ただアランの目にどう映るかを気にしているだけに過ぎず、また何か事が起こると、
「私では判断がつきかねます。」
と責任を避け、
「団長に伺ってきます。」
と、誰も自分の頭で考えようとしない。
疾風・風雷・漆黒のアーリグリフ三軍の気質には、団長の性格が如実に反映されるものらしいが…。
(ということは、これはアラン様の気質ということ?…でも、それなら漆黒は?)
クレアは先日のアルベルの不遜な態度を思い出して、ムカムカとした。漆黒の幹部らと会った折、アルベルも彼らと一緒に城に来たという事を聞いて、会いにいったのだ。代理とはいえ現漆黒団長は実質カレルなのだから、アルベルにまで挨拶する必要はないとは思ったし、できれば会いたくはなかったのを思い直して、わざわざ探して挨拶しにいったのに、
「何の用だ?」
と、開口一番にそう言われた。ここで既にカチンと来ていたが、それは隠して挨拶しに来た旨を伝えると、
「テメェのお遊戯に俺を付き合わせようとするな。」
ときた。これには黙っていられなかった。
「あなたにとって、挨拶はお遊戯なのですか?」
「フン。自分が演技してる事にも気付かねぇのか、阿呆。」
全く話が噛みあわない。全く話にならない。この男には何を言っても無駄だ。
「どうやらあなたは挨拶されるのがお好きではないようですね。」
「そうだな、貴様の芝居じみたご挨拶は特にムカつく。」
「そうですか。それでしたら、これからは控えさせていただきます。」
「最初からそうしろと言ってんだ。何度も言わせるな、阿呆。」
もう話すことは何もなかった。不器用で本当は優しい人間なのかもしれないけど、人をこれ程までに不快にさせるなんて、それ以前の問題だ。良識も何もあったものではない。
(挨拶もできないような人がトップにいるべきではないわ。)
クレアは厳しくアルベルを切り捨てた。漆黒の幹部達のあの温かい気質は、アルベルというよりむしろカレルによるものなのではないか。どう考えたってあるベルよりもカレルの方が団長に相応しい。それなのに、カレルは漆黒の団長はアルベルでなければ駄目だという。何故そこまでアルベルにこだわるのか。一度聞いてはみたが、
「旦那に惚れてるからに決まってんだろ?」
と、本気か冗談かわからない答えを返された。例えそれが本気だったとして、カレルほどの人間があのアルベルの一体どこに惚れたのか、クレアにはさっぱりわからない。
(まさか…自分が表に立ちたくないが為にアルベルを推そうとしているのでは…。)
カレルがいつも目立つ仕事は人に押し付けて、自分は後ろに引っ込もうとするのを思い出しながら、カレルをじっと見た。カレルはアランに失敗作と断じられたクッキーを嬉しそうに袋に詰めて回収している。と、カレルがこちらに気付き、クッキーをクレアの方に差出してにっと笑った。
「あんたもいるか?」
クレアは半ば呆れつつ首を横に振り、微笑を返した。
「じゃ、全部貰うな♪」
(邪気がないというか…本当に子どもみたいな人ね。)
歳はいくつなのだろうかと、自分よりも若く見えるカレルの歳を推察しようとしていた時、チラとカレルの目線が動いた。そして傍に居た部下に小声で言った。
「タオルがない。」
一体何の事だろうと、カレルが視線をやった先を見ると、アランが手を洗おうとしているところだった。部下はタオルを引っ掴んでアランの方へ飛んで行った。
クレアは改めてカレルを見直した。
(そうだったわ。この人の見かけに騙されてはいけない。)
そして、王に対してアルベルこそが団長として相応しいと真剣に主張していたカレルの姿を思い出し、さっきの考えを浅はかだったと取り消した。