「あー、やっぱカルサアはいい。ホッとする。」
城から修練場に戻ったカレルは、公の場は体質的に合わぬとぼやきながら、団長室に入った。会議の内容を早速アルベルに報告しようと思っていたのだが、そこはもぬけの殻。机の上には、豪快な字で『帰る』と一言だけ書かれた書き置きがあった。
「避けたな。…まあ、それが最善の手だ。」
カレルはその書置きをひらひらとさせながらつぶやいた。会議の内容を書簡にして送りつけてやろうかと思ったがやめた。未開封のままゴミ箱行きになるのがオチだ。
カレルは溜息を付き、ライマーの仕事部屋へと向かった。この時間はまだ仕事をしているはずだ。ライマーの役職は情報部であり、戦時中には所謂スパイ活動をしていたのだが、戦争が終わってからは大した仕事もなく、これまで集めてきた情報をまとめる作業をしている。だが、訪れた部屋には留守番を任されていたライマーの部下がいるだけだった。
「ライマーは?」
「たった今出て行かれましたよ。」
「ちっ、タイミング悪ぃ奴だな。」
その時、
「悪かったな。」
後ろからライマーの声がした。カレルはイタズラっぽく笑いながらくるっと振り返った。
「おっと、ライマーさん、グッドタイミング♪」
その変わり身の速さにライマーは呆れた。
「お前な…。今、自分が何て言ったか、覚えてるか?」
「グットタイミング?」
ライマーは苦笑しながらカレルの頭を手の平でどついた。カレルも笑い、ライマーが部屋に入るのに続きながら、
「何か用事があったんじゃねぇのか?」
と気にした。
「ああ、お前にな。」
カレルが帰って来てそうな気がして、そちらに向かおうと廊下の角を曲がったところで、カレルのふざけたノックを聞きつけ、引き返してきたのだった。
「ほんとにグットタイミングだったな。」
カレルが嬉しそうに言う。こんな風に、互いに会いたいと同時に思うのはよくあることだ。その度に、二人は互いに繋がっていると感じるのだった。部下が出て行くのを待ってライマーが本題に入った。
「聞いたぞ。団長代理の話。」
「旦那が言ったのか?」
「そうだ。幹部が招集されてな。もう皆知ってる。」
「成る程、そう来たか…。」
その事実にカレルは頭を抱えた。アルベルは、カレルが代理ではあるが団長となった事実を確かなものとして動かせぬように、早速周囲に知らせたらしい。普段、そんなマメな事などしない癖に。
カレルが怖いと思うのは、まさにアルベルのこういう面だった。アルベルは人の盲点をつくのが実に上手いのだ。将棋でもそうだが、こちらが熟考に熟考を重ねたのにも関わらず、そんなことなど全く関係ないかのように、スパッと予想外の、しかもこちらにとっては痛手となる手を打ってくる。
「さすが旦那と言いたい所だが、まだまだ俺に分がある。」
「どうするんだ?このまま団長になるのか?」
それならそれでもいいとライマーは思っていた。確かにアルベルが団長を辞してしまうのは非常に惜しい。しかし、その後にカレルが着くのなら話は別だ。だが、
「まさか。」
とカレルは完全に否定してしまい、
「漆黒の団長はアルベル・ノックス以外に有り得ない。」
と確信的に言った。カレルがそう言うのならそうなのだ。ライマーは少々残念に思いながらも、カレルが団長になる可能性を頭の中から消した。
「まぁ、いずれにしろ、漆黒は大きく再編しなおす必要がある。戦争モードから平和モードに切り替えなきゃな。この一件は、その節目として丁度いい。言っとくが、お前が暇でいられんのも今の内だけだぞ。」
ライマーは、カレルが敢えて自分を休ませているのを知っている。今まで、カレルを補佐しながら、休む暇なく各地を飛び回るという激務をこなしてきた。それからすると今の生活は少々物足りなくはあるが、こうしてカレルとゆっくり話をする時間ができたのは嬉しい。
「覚悟しておく。」
ライマーが苦笑すると、カレルもニッと笑った。だが、その笑みをおさめた瞬間、カレルはふと表情を曇らせた。それは、まばたきの間に見逃してしまうくらいの、ほんの一瞬だったのだが、ライマーはそれに気付いた。何かあったのか。それを聞こうとするより前に、カレルはポケットを探り、折れたペンを差し出した。
「ところでコレ。直して欲しいんだが。」
カレルは身分が上がり、収入が増えた今でも持ち物は少な過ぎるほどに少ない。その数少ない中で、何よりも大切にしていたペンの無残な姿に、ライマーは血相を変えた。
「…どうしたんだ?」
「色々あってな。…直せるか?」
ライマーは折れた部分を慎重に調べた。木製なので、折れた部分を切り取って継ぎ足せばなんとかなりそうではある。
「元通りにはならんが。」
「いい。」
ライマーは机につくと、引き出しから道具箱を取り出した。小型の様々な工具がざっくりと入っている。スパイ活動に必要だったものだ。カレルはその机の端に椅子を持ってきて座ると、腕を枕に机に寄りかかって、ライマーの手元をじっと見守った。大きな手が器用に動き、細かい作業を進めていく。カレルはそれをぼんやりと見ながら、
「ライマー。お前さ…」
と、そこまで言ってとまった。どうやら言い難い事を言おうとしているらしい。さっき表情を曇らせたのは、これが原因かもしれない。どんな事を言われるのか。ライマーはペンの折れてギザギザになった部分を小型の鋸で切り取りながら、密かに緊張した。だが、カレルは中々その先を言おうとしない。これは余程の事だ。
「何だ。」
ライマーが促すと、カレルはそれからしばらく指で髪をいじくった後、ようやく続きを口にした。
「風雷に行く気はねぇか?」
ライマーは手を止めて、カレルを見た。食い入るように自分を見つめる目と視線がぶつかる。その瞳が微かに揺れているのは、自分がどう返答するのか、返事を聞くのを恐ているからだろう。
「ないな。」
ライマーは一言の元に答えた。その瞬間、カレルはふっと緊張を解きつつ、
「なんで?」
と尋ねてきた。理由はただ一つ。カレルと共にありたいからだ。だが、ライマーはここで自分の立ち位置を考えてみた。カレルは漆黒を編成し直すと言った。その中で、真っ先に削られるのは自分の部所だ。戦争が終わった今、スパイなど必要ない。カレルもそう考えているはず。だが、親友としての情に引きずられそうになっているのだろう。それはらば、自ら身を引いてやるしかない。
「まぁ、俺がもう漆黒には必要ないというなら行くが。」
すると、カレルは「それは違う!」と即座に首を横に振った。だがその勢いも最初のうちだけで、しゅーんとしぼみ、あっという間に底まで落ち込んだ。
「……けど、考えてみたら……お前を必要としてるのは…俺だ…。」
最後の言葉は腕に口を押し当てて言ったので、ライマーには届かなかった。
「何が言いたいんだ?ハッキリ言え。」
ライマーの新しい配属を決めかねているのは、どの部所もライマーを置くまでもないからだ。今までだって、ライマーの配属は精鋭部隊の一部署である『情報部』となっていたが、実質的には精鋭部隊からは独立させ、団長の指揮の及ばぬところを全面的に任せていたのだ。しかし、戦争が終われば、そういう役割はもう必要ない。そして新しく、ライマーの秀でた能力に相応しい役職を考えた時、それは最早漆黒の中にはなかったのである。
(風雷団長…。)
本当は、カレルの中で既に答えが出ている。それを、自分の傍に置いておきたいという、そんなつまらない理由で飼い殺しにするわけにはいかない。カレルは深い深い溜息を付き、腕に顎を乗せて話し始めた。
「今回な、ウォルター隊長が代理を立ててきた。そいつがまた中途半端なやつで。いっそお前だったら良かったのにって思ったわけだ。順当に風雷に行ってたら、そうなってたはずだしな。それで、今からでも遅くねぇんじゃねーかってな…。お前なら絶対に団長になれるしな。」
「興味ないな。」
「なんで?」
「ウォルター隊長に憧れて風雷に行こうと思っていたのは昔の話だ。今も尊敬する気持ちはあるが、その頃とはもう違う。」
「けどなんか悔しいよなぁ。あのイソギンチャク野郎が団長になって、お前に偉そうに指図なんかしやがったら、それこそ全てを賭けて引きずりおろしてやる。」
(イソギンチャク?)
どうもカレルの人物表現は、解説がないとわかりにくい。最も説明してもらったら、成る程と納得できるのだが。真面目なライマーの脳内に、イソギンチャクがふよふよと揺れたが、それはどうでもいいことだと、取り合えず置いておいた。
「今はそうでも、団長になる頃には変わっているかもしれないだろう?人は自分次第でいくらでも成長するというのは、いつもお前が言ってることじゃないか。ウォルター隊長が目を掛けているなら間違いはない。」
「けっ。しばらくそんな寛大な気持ちにはなれねぇな。散々厭味言われたし。」
「…まさか、これをやったのもそいつか?」
ライマーは折れたペンを示した。
「いや。それは自分で。」
「…自分で?」
「んー…。」
カレルは顔を腕の中に埋めてしまった。これは、言いたくないけど、でも聞いて欲しいということ。
カレルの心は複雑だ。物事が見え過ぎるが為に心に矛盾が生じ、笑いの中にさえ悲しみを感じていたりする。それ故、その苦悩も人一倍。このペンの無残な姿といい、風雷の話といい…。一体カレルの中で何が起こっているのだろうか。ライマーはカレルが話す気になるのをゆっくりと待った。