小説☆アラアル編---二つの国(3)

  (寒い…。)

クレアはルム車の中で体を震わせながら、コートの前をかき合わせた。カルサアを出て、アーリグリフへと続くトラオム山岳地帯に入った途端、気温がぐんと下がり始めた。時刻は昼のはずなのに、灰色の雲に覆われた街は薄暗く、空からは雪が果てしなく降り積もっている。

アーリグリフに来るのはこれで二度目だが、冬に来たのは初めてだった。 一度目は春、ロザリアの結婚の時だ。春には緑の葉をつけていた木も今は雪に覆われ、その木々の枝で囀っていた鳥は姿かたちもない。暖かい太陽の光はどんよりとした灰色の雲に遮られて、世界が薄暗いベールに覆われているようだ。聞けば一年の殆どがこんな天候なのだという。この気の滅入りそうな雰囲気のせいか、普段はおしゃべりな部下たちも口数が少なく、肩を寄せ合って静かにルム車に揺られている。

アーリグリフの城下町に入っても人通りはなく、家にぽつぽつと灯った明かりだけが、人の気配を感じさせてくれる。この国の民は皆、春の訪れを心待ちにしながら、身を寄せ合って冬を乗り切るのだろう。シーハーツがどれだけ恵まれているのか、当り前だと思っていた事がどれ程有り難いものだったのか、今更ながらに気付く。

ルム車が止まった。城に着いたのだ。カルサアからここまで送ってくれた風雷の兵士が差し伸べてきた手を借り、クレア達はルム車から雪の上に降り立った。兵士が門番から通行証を受け取る手続きをしている間、クレアは目の前の城を見上げた。

春に訪れた時には人で賑わっていた城。しかし、今は重くのしかかる雪にじっと耐えているように見えた。まるでこの国の民の姿を象徴しているようだ。

  「クレア様。これが通行証です。これで自由に城に出入りできますので、なくさないようにして下さい。」

手続きを終えた風雷の兵士が、クレアに、手の平にすっぽりと治まる大きさの、木製の通行証を差し出した。

  「有難うございます。」

兵士はそれをクレアに渡すと、

  「もっとも、それはあなたには必要ないものかもしれませんね。」

と言った。

  「え?」

クレアはどういうことかと、目の前の青年の生真面目そうな顔を見上げた。

  「あなたの美しいお顔を忘れる門番などいないでしょうから。」

クレアが困ったような表情を浮かべると、青年は笑顔を見せ、ルム車に乗り込んでカルサアへと戻って行った。

  (人は皆そんな風に言うけれど…。)

クレア自身、自分の美しさを意識した事はなかった。だから、そんな風に言われても、いつも困ってしまうだけだった。

  (だけど…)

アランもそう思っててくれたらいい…。クレアはアランがいるであろうアーリグリフ 城を見上げながら、密かにそう願った。





城内に入ると、まずアーリグリフ王の自室に案内された。クレアは部下たちを外で待たせ、王に面会した。

  「ロメリアがそう言ってくれたか。」

クレアが王女の言を伝えると、アルゼイは嬉しそうに笑った。

  「それにしても、まさかクリムゾンブレイドの片翼を寄越してくれるとは。流石、ロメリアは気前がいいな。クレア、宜しく頼む。」

  「微力ながら尽力させて頂きます。」

クレアはそういいながら、王の声に強い力が漲っているのを感じていた。人の心を掴み、従わせる力。神秘的なオーラに包まれた王女とはまた別のエネルギーだ。

  「そう言えば、そなたはロザリアと親友だそうだな。」

  「はい。幼少の頃より共に育ちました。」

  「そなたが来てくれてロザリアも喜ぶだろう。自由に出入りしてくれ。」

王は気さくにそう言った。かつては敵国の王だが、実際にこうして相対してみると、その人となりに惹かれるものがあるのは否めない。先の戦争のことも、民の事を思うが故の苦渋の決断の結果だったのだと、思わず納得してしまいそうになる。勿論、実際に納得することなどできないが。

  「それにアランとも面識があったな。アランに城内を案内させよう。」

王が控えていた兵士に「アランを呼べ。」と命じた。アランの名を聞いただけで、クレアの胸がドキンと躍る。しかし、それが顔にでることはない。

それから程なくして、コンコンと部屋がノックされた。その控えめなノックの音に、クレアの背筋に緊張が走った。静かにドアが開き、そしてアランが入ってきた。

  「失礼します。」

耳に柔らかく響く優しい声。穏やかな笑みで彩られた美貌。品のいい服装。優雅で上品な立ち居振る舞い。彼を取り巻く涼やかな空気。忘れよう忘れようとしていたそれらが、クレアの心に一気に揺さぶりかけた。

アランの紫色の瞳が自分の姿を捉えたのを感じ、思わず赤面してしまいそうになるのを渾身の気力でねじ伏せ、いたって平静を装ってアランに向かって軽く微笑んだ。

  「お久しぶりです。今日から、こちらでしばらくお世話になります。よろしくお願い致します。」

  「こちらこそ、よろしくお願い致します。」

短い挨拶がこれ程疲れようとは。会わなかったぶんだけ、以前よりも益々想いが募ってしまったようだ。

  「アランは日中大抵この城にいる。何か不自由な事があったらこいつに言うといい。」

  「有難うございます。」

クレアは礼を失さないように、それでいて恭しくなりすぎないように気をつけながら頭を下げた。



アランの後に続いて部屋を出た。部下たちは先に部屋に案内されたようだ。クレアはアランの後ろについて歩きながら、そのすらりとした後姿に心をときめかせた。耳が痛くなるような空気の冷たさも、今は全く気にならない。まるでデートでもしているかのように心が弾む。だが、アランの方はただ淡々と命じられた仕事をこなしているだけのようだ。

  「城内は自由に出歩かれて構いませんが、牢、竜舎、そして食料庫・厨房へは勝手に入らぬようお願いします。もし、どうしても入りたい場合は各部署に担当の者がおりますので、それに声を掛けて下さい。そうしなかった場合は、取調べを受けてもらう事になります。」

  「…はい。」

牢や竜舎への出入り禁止は危険だからというのが理由だろう。しかし、食料庫と厨房の出入りを禁じるのは、つまりはこちらを信用していないという事だ。毒を入れたりなど、そんな卑劣なことは決してしないのに。王の命令だろうか…それとも…。

アランは簡単に一通り城内を案内し終えると、最後にクレアにあてがわれた部屋に向かった。

  「こちらです。部下の方たちの部屋はこの先にあります。」

アランがドアを開け、自分が中に入るのを待ってくれる。紳士としては当然の態度であるにもかかわらず、思わず都合のいいように勘違いしたくなる自分が恥ずかしい。

中に入ると部屋は狭く、窓は一つだけ。暖炉のほかには机と本棚つきのタンス、小さなテーブルセット、そしてベッドがあるだけのシンプルなものだ。だが、狭い方が暖炉の熱が効率よく部屋を暖めるだろう。荷物は先に届けてくれていたようだ。アランは暖炉に木をくべると火をつけた。

  「何か不自由がありましたら、外の者に言いつけてください。」

  「はい、有難うございます。」

  「それでは。」

少しお話が出来たらと期待していたクレアは、殆ど大したこともしゃべれずじまいだったことを残念に思いながら、部屋を出て行こうとするアランを見送った。だが、アランはそこでふと思いとどまり、ノブに伸ばしかけていた手を止めて振り返った。目が合った瞬間、胸がドキリとなる。

  「あなたはご結婚なさっていますか?」

  「えッ!?」

あまりに唐突なことに不意をつかれ、クレアはかあっと赤面してしまった。

  「あ…の……。」

中々言葉が上手く出てこず、ただ小さく首を横に振った。

  「では、決まった方は?」

  「え?は…はい…あ、いえ…。」

  (『決まった方』?…婚約者?恋人?それとも好きな人?)

クレアは動揺し、頭の中が完全に混乱していた。

  「どちらです?」

はっきりした返答が返ってこないことに、アランが微かに苛立っているような気がして、クレアは慌てて返事を返した。

  「い、いえ……いません。」

何を思ってそんな質問をしたのか、その返答に対するアランの反応はよく分からなかったが、少なくとも喜ばせはしなかったようだ。クレアの返事を聞いて、

  「そうですか。」

と、あっさり背を向けて今度こそ出て行こうとしたのを、クレアは思い切って呼び止めた。

  「…どうしてそんな事を聞かれるのですか?」

  「気になったものですから。」

アランは肩越しにそれだけ言うと、そのまま部屋を出て行った。クレアはどっと疲れてベッドの端に腰をかけた。そしてアランの言動を何度も反芻する。自分に興味を持ってくれているとは到底思えない。そもそもアランには恋人がいるはずだ。

  (一体どういうつもりなのかしら?)

かき乱されてしまった心を落ち着かせるのに、それからかなりの時間を要した。





  「クレア!」

部屋を訪れたクレアに、ロザリアが駆け寄ってきた。互いに抱擁を交わす。

  「ロザリア、元気だった?」

  「ええ、あなたも元気そう。シーハーツは変わりない?」

  「ええ。」

ロザリアとクレアは、手を取り合ってソファに腰掛けた。

  「結婚生活はどう?辛くない?」

  「とても幸せ!」

ロザリアは心から幸せそうに微笑んだ。アルゼイに想い人がいたのはロザリア自身も知っている。そのお相手が誰なのかも。

  『あの方に好きな方がいらっしゃるのは知ってる。だけど、私はあの方が好き。私と結婚してくださるというだけで幸せなの。』

ロザリアはそういって結婚していった。本当に幸せになれるのだろうかと心配していたが、王はそんなロザリアを大切にしてくれているようだ。ロザリアの笑顔にクレアはほっと安心した。

  「クレア、あなたは?結婚しないの?好きな方は?」

  「え…ええ。」

クレアは目を伏せた。この思いはネルにしか話したことがない。

  「いるのね?」

ロザリアのつぶらな瞳がクレアを見つめる。だが、そこに見たクレアの浮かない表情に、

  「どなたか聞いてもいい?」

ロザリアは躊躇いがちになった。クレアは悲しそうにゆっくり首を横に振った。

  「その方にはもう決まった方がいらっしゃるの。だから…。」

  「そう…。」

ロザリアは我が事のように辛そうにクレアを見つめ、握った手を強く握り締めた。

  「いつでも会いに来て。いつでも相談にのるわ。」

  「有難う…。」

そこでロザリアは「そうだ!」と軽く手を打ち鳴らした。

  「アーリグリフの昔ながらのお菓子があるの!私のお気に入り。すぐお茶をいれるわ。」

ロザリアは話題を変えることで、友人をいたわった。

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