シーハーツでの任務を終えたネルは、早速アーリグリフにやってきた。ネルの姿を見たとき、クレアは思わず彼女に駆け寄って抱きしめた。
「よかった…来てくれて。」
そんなクレアを、ネルは優しく抱きとめた。
「…相当大変みたいだね。」
「でも、あなたが来てくれたから大丈夫。これからは楽させて貰えるわ。」
クレアはそういうと、お互いに微笑みあった。ネルが傍にいてくれるだけで、疲れが一気に癒やされ、何でも出来る気がした。
「大体の流れはわかったよ。で、まずはカレル・シューインに会えばいいんだね?」
クレアがこれまでの経緯を説明すると、ネルは頷きながら言った。
「ええ。明日の朝、城に来るって言っていたわ。」
「カレル・シューインっていったら、アルベルの右腕だろ?どんな奴だい?」
クレアは「えっ?」と驚いてネルを見た。
「会ったことあるでしょう?彼はあなたの事を知っていたわ。」
「いいや。少なくとも紹介はされてないよ。」
「だって、ユーリィの結婚式の時にも…ほら別室で皆の面倒を見てくれてた…。」
「もしかしてアルベルを運んで行った奴かい?」
「そう、その人よ。」
「ああ、アイツか。確かに頭の切れそうな奴だったね。」
一見遊び人風のカレルの本質に一目で気付いたなんて。クレアは流石ネルだと感心した。
「でもすごく優しい人よ。」
「へぇ?まあ、真面目そうではあったけど。」
「…真面目そう?」
「あのふざけた連中の中では一番まともに見えたね。」
『真面目そう』『まともに見える』それらの言葉は、どう贔屓目に見てもカレルには当てはまらない。どうやらネルはカレルを別の誰かと勘違いしているらしかった。恐らくはライマー・シューゲルだろうと思いながら、ネルにカレルの特徴を教えると、ネルは「覚えてない。」とキッパリと言った。確かにカレルは目立つ方ではない。いや本当は、自己主張さえすれば皆が注目する要素は多分に持っている。ところが、あの派手な色に染めた髪に似合わず、目立つ事が心底苦手なようで、表立った仕事は全部人に押し付けて自分はすかさず裏方に回ろうとする。今回カレルまで女装して表舞台に立つ事になってしまったのは全くの予想外だったそうで、今から憂鬱だとぼやいていた。
「そいつがアタシに一体何の用だろうね?」
「それは…。」
クレアが言いよどむと、
「何かあったのかい?」
とネルが心配そうに聞いてきた。舞踏会でネルに男装してくれないかという相談だ。だがクレアは、自分が今ここで下手にその事を伝えてしまっていいのだろうかと迷った。ここでネルの機嫌を損ねたら、間違いなくカレルの交渉は難航するだろう。でも、ネルに言わないわけにはいかない。だが、
「舞踏会の件で…その…とても言い難いんだけど…。」
と言いかけたとき、
「じゃ、言わなくていいよ。そいつに聞けばわかることだしね。」
ネルはさらりとそう言ってくれた。クレアの心情を読み取ってくれたのだった。やはりネル。傍にいてくれるだけでこんなにも安心する。彼女の優しい瞳を笑顔で見つめながら、自分にはネルが必要なのだと心底感じていた。
部屋の隅でネルとクレアが真剣に今後の流れについて話し合っている手前、女達は真面目に仕事をしていたが、頭の中はさっきの話でいっぱい。最初は我慢していたのだが、その内一人が、しゃべってしまいたい気持ちを押さえきれずに、とうとうその話を持ち出した。
「ネル様たちは何か知りません?」
「さあね。」
ネルは真実を知っているのだが、とぼけてみせた。
「アルベルの奴、絶対アラン様に気がありますって!」
「もしも、アラン様の身に何かあったら…!いや〜ん!もう、心配〜!」
妄想しながらイヤイヤをする部下を、ネルはしらっと冷たくあしらった。
「アタシはあんた達の脳ミソの方が心配だよ。無駄口叩いてないで、さっさと仕事しな。」
「でも、ネル様はそう思いません?」
「噂なんて、大抵、どっかの馬鹿が面白がって作った嘘っぱちさ。」
「え〜!でもぉ〜!」
それでも納得しようとしない部下たちの顔を見て、ネルは、アーリグリフで聞いた噂を教えてやった。
「知ってたかい?アーリグリフの兵士たちの間では、シーハーツではレズが横行してるって噂があるんだよ。」
すると、女たちは皆憤慨し始めた。
「何ですか、それ!?失礼〜ッ!」
「女の子同士でベタベタするのは、そういう意味じゃないのに、男ってのは何でもそんな風に思いたがるんですよね。」
「男の妄想ってやつ?バッカみたい!」
そこでネルが、
「あんた達も、今おんなじような噂してたじゃないか。」
と、ぴしゃりとそういうと、女たちはバツが悪そうに黙り込んだ。
「兎に角、本当かどうかもわからないことを、あれやこれやと勝手に言うのはやめときな。」
ネルはクレアに視線を戻し、元の話に戻ろうとしたが、クレアが考え込むような表情をしていることに気付いた。
「……クレア?どうしたんだい?」
「…え?えっと、ごめんなさい、予算の事で頭がいっぱいで…。何の話だった?」
クレアは急いでそう言い繕った。
「いいんだ。大した話じゃない。ほら、クレアを見習って、皆もちゃんと仕事に集中した!」
「はーい。」
仕事に集中するフリをしながら、クレアは別のことを考えていた。
(あの香り…。)
いつだったか、アルベルが通り過ぎた時にふわりと香った香水。ほのかに甘く爽やかなあの香り。今でもはっきり思い出せる。あれは間違いなくアランと同じものだった。香水にはそれほど詳しくないが、あれがどこにでもあるような安物でない事くらいわかる。それを偶然に同じものを付けたりするだろうか。
そういえば、あの香りはいつものアランの香水ではなかった。それなのに、どうしてあの日だけアルベルと同じ香水だったのだろうか。そもそも、アルベルに香水をつける習慣があるとは到底思えない。アルベルとともに行動していた時にも、香水を付けているとは感じなかった。単に気付かなかっただけだろうか。いや、あれからアルベルとは何度か会ったが、あの香りを感じたのは、やはりあの時だけだ。
同じ香水を付ける。それが意味することは…。
クレア自身、ネルとの同性愛を噂されているのを知っている。全く根も葉もないことだ。そんな下賎な目で見られてることに嫌悪感を抱く。だから、アルベルがアランに気があるなどという噂も、これまでだったら下種の勘繰りだとばっさり切り捨てていただろう。
しかし、今そういう可能性があることを聞いて初めて、思い当たることが多過ぎる事に気付いた。
思えば、アランの視線の先にはいつもアルベルがいた。アルベルが部屋に入ってくると、アランは誰よりも早く席を立ち上がり、敬意を持って迎え入れた。アルベルがいる時、アランは表情が豊かになり、煌くような笑顔を見せた。
これまでは、アルベルを余程尊敬しているのだろう、とその程度の認識だった。だがそれだけでは、以前アランが見せた、アーリグリフ最強の剣士に対するにしては、過剰過ぎる心配の仕方、そして、アルベルが帰ってこない事を聞かされた時の、あの取り乱し様は、どうしても説明がつかなかった。
そう、どう考えてみても、尊敬以上の感情があると考えた方が自然なのだ。
アリアスの復興にアランが派遣されてきた時もそうだった。アランが過労で倒れ、アルベルがわざわざ様子を見に来たことがあった。結局、アルベルはただ昼寝していっただけだったのだが、それからアランは見違えるように元気になった。また、アランに、アルベルと親しいのかという質問をした時、アランは、ただ「はい。」と答えるのではなく、
『…私の方が慕っているというのが正確な表現になるでしょうか。』
という言い方をした。
『私の方が慕って…』
つまり、噂とは逆で、好意を寄せているのはアランの方。
(アルベルがというよりも、アラン様の方が…。)
あの香水はアランが贈った物なのだろうか。それをアルベルがつけていたということは、アルベルも…。
同性愛。アペリスの教えでは、それは汚らわしいものとされている。『汚らわしい』という言葉から最もかけ離れたアランが、まさか…。だが、いくら否定しようとしても、あの香水の香りが二人を結びつけてしまう。
考えすぎなのかもしれない。あの二人がそういう関係にあるなど、信じられない。何かの間違いであって欲しい。
(きっと気のせいだわ。)
クレアは心の中で何度も言った。