「ネズミだ。」
自分たちの前に胸を反り返らせて立った新兵の教育係の男を一目見るなり、カレルはぼそっとつぶやいた。不運にもこれを聞いてしまったライマーは、笑いを堪えるために全身の筋肉を総動員しなければならなかった。ネズミ男は人に威張れる立場になったのが嬉しいのか、椅子にふんぞり返って偉そうに説教を垂れている。
「いいか、ここは戦場だ!学校で何を学んできたか知らんが全て捨てろ!何の役にも立たん!」
その間、炎天下の中一時間、カレル達は勿論立たされっ放し。やっとそれが終わったかと思いきや、いきなり走らされた。ただひたすらにぐるぐるぐるぐる、と。最初のうちは何週目か数えていたカレルも、その内意識が朦朧となり、ふらつくたびにライマーが支えてくれた。と、一人が倒れた。顔面が蒼白になっている。危険な状態だ。カレルは立ち止まり、ふらふらしながらそれを助け起こそうとした。
「貴様、何をやってる!そんな役立たずは捨てていけ!」
「恐らく…熱中…症…です。この…ままじゃ…死に…ます。」
カレルは自分も息も絶え絶えになりながら必死で訴えたが、ネズミ男はそれを鼻で笑った。
「はっ!そんなクズ、漆黒には必要ないわ!」
「しかし!」
「何だ、貴様ッ!上官に逆らう気かッ!」
カレルは背中を蹴られ、地面に突っ伏した。そこに更に蹴りを入れられる。
「上官!」
ライマーが駆け寄り、カレルを助け起こした。
「なんだ、貴様も逆らうのか!?ああっ!?」
「医務室に連れて行きます。」
ライマーが厳しい表情でズイと見下ろすと、ネズミ男は内心びびったようだ。
「生意気なやつめ…。貴様らはもう戻ってこんでいい!落ちこぼれ組行きだ!お前ら、笑ってやれ!ははははは!」
ネズミ男は新兵たちを促したが、皆疲れきって笑うどころではない。その事に気を悪くしたネズミ男は傍にいた新兵を蹴飛ばした。
「笑え!笑わんか!」
「は…ははは…はは…」
上官にどやされ無理やり笑わされているのに背を向け、ライマーはカレルと共に倒れている男を抱えて医務室に連れて行った。
「いやぁ…どん底ってあるもんだなあ…。」
「感心してないで、さっさと手を動かせ。」
カレルとライマーは二人、山のような汚れ物の洗濯をさせられていた。むわっと発酵した汗と汚れの悪臭に吐き気がしてくる。
「でもまぁ、考えようによっちゃラッキーじゃねぇか?」
「…まあ、無茶苦茶に走らされるよりはいいかもしれないな。」
しかし、受ける扱いは最低の最低だった。
朝から晩まで、掃除・洗濯・草むしり・便所掃除・使い走りと、休む暇なくこき使われる。例えそれが無茶な事でも、できていなければ兵士達から罵倒され殴られる。与えられた狭い部屋にはベッドなどなく、床の上に雑魚寝。食事は他の兵士たちの残り物。何も残らなければ食事抜きだ。
この生活において最も辛かったのは、皆から蔑まれる内に、どんどん心が歪んでしまうことだった。
「上官殿!私が間違っていましたッ!愚かな私にもう一度チャンスを下さい!お願いしますッ!お願いしますッ!」
何とか落ちこぼれを卒業しようと、必死で上官に尻尾を振る姿は、哀れ過ぎて見るに耐えなかった。
そんな中、ライマーは愚痴や文句など一切こぼさず、ただ黙々と仕事をこなしていた。その姿をカレルは複雑な思いで見ていた。この漆黒でも十分すぎるほどやっていけるライマーが、こんな憂き目にあっているのは自分のせいだ、どうにかしてなんとかしてやりたい、と。
ある日。カレルは活き活きとした表情でライマーのところへ駆け寄ってきた。
「ライマー聞いてくれ!俺、英雄グラオ・ノックスに会った!」
「へぇ。」
余程嬉しかったらしい。カレルの満面の笑みに、ライマーもつられて口元に笑みが浮かんだ。カレルのこんな笑顔を見るのは久しぶりの気がする。
「なんて言われたと思う?」
「さあ?」
ライマーは黄ばんだシャツをごしごしと洗いながら話の先を促した。
「『不屈の精神を鍛えてると思えばいい。心を鍛えるのは体を鍛えるより遥かに難しいことだ。それをするチャンスを貰ったと思え。』」
ライマーの手が止まった。
「俺は救われた。」
カレルはしみじみと言った。
「俺はなんとかここから這い出して、いつかきっとグラオ隊長に恩返しする。」
どうやって這い出すのか、具体的な方法など何もなかったが、それでも二人の胸に希望がよみがえった。