それから三ヶ月が経ち、兵舎での生活にも慣れてきたころ、最初の試験がやって来た。この試験の成績がダメだと即退学となってしまうとあって、普段まともにペンを持ったことがないような連中も自習室に集まり、このときばかりは必死に勉強している。
ライマーは勿論、全科目満点を目指し、それと同時に自分の勉強をし…なければならないというのに。
「じろじろ見るな!」
「まあ、気にすんなよ。」
カレルが前の席に陣取り、ライマーが勉強するのを覗き込んでくるのだ。
「気になるんだ、あっちへ行けよ!」
「集中すりゃ気にならなくなる。まだまだ集中力が足らんよ、キミ。」
「ッ!」
ライマーは頭にきて本やノートを閉じ、別の席に移った。しかし、カレルもしっかり付いて来る。
「逃げるこたねぇだろ?」
そのけろりとした表情に、とうとうライマーはぶち切れた。
「お前、いい加減に…!」
怒りを爆発させようとすると、カレルは急かすようにトントンと机を叩き、
「ほらほら、早く始めようぜ。俺に構ってたら時間が無駄になるぞ?」
日頃寸暇を惜しんで勉強しているライマーを揶揄するように、早く早く!とパタパタしながら、勝手に勉強道具をライマーの前に広げ、ニンマリと笑った。
(何なんだこいつは!?)
これ程はっきり『どこかへ行け!』と言っているのに、何故わかってくれないのだろう?普通、相手が怒ったら退くなり反発するなりするものなのに、どうして通じないのだろう?ちょっと頭が緩いのではないだろうか?
「何で俺の邪魔するんだ?」
ライマーはげっそりして、そう尋ねると、カレルは軽く口をとんがらせた。
「ちょっと見せてもらってるだけだろ?ケチケチすんなよ。」
「どうせ見たってこれは試験に出ないぞ。」
ライマーがやっているのはいわゆる士官学校生が勉強する内容だ。試験とは全く関係ない。それがわかっているのか?と言ったのだが、カレルは、
「知ってる。」
とあっさり答えた。
「自分の勉強をしろよ。」
と言ってみたが、
「もう終わった。」
とさらりと返された。
「嘘つけ。」
「本当。」
カレルの勉強している姿など、一度も見たことがない。しかし、何を言っても無駄らしいことに諦めて、カレルを無視することにし、勉強に戻った。
最初こそイライラしたものの、カレルは本当にただじっと見ているだけだったので、その内気にならなくなった。だが、完全にその存在を忘れ、勉強がのってきた頃、
「カレル、ノート見せてくれよ。」
と、Aクラスの奴らが近づいてきた。集中を途切れさせられたことに、ライマーはイラっとして、カレルを睨んだ。本当に、こいつらを連れてどこかに行ってくれないだろうか。そんなライマーに気付いた風でもなく、カレルは友人の頼みに、
「あー…」
と、ちょっと迷っているようだった。人にはケチケチするなと言っておいて、自分は出し渋るのか。ライマーはそんな事を思いながら再び勉強に集中しようとしていると、
「別にいいけど、多分、役には立たねぇぞ。」
と、カレルはボロボロのカバンから、いろんな紙を綴じて作った自作のノートを取り出した。いらなくなった紙の裏をノートとして使っているのだった。
「いやいや、そんなことねぇだろ。」
と、友人らは調子よくおだてようとしたが、ノートの内容を見た途端、ぽかんとなった。
「俺、授業でわかんなかった所しか書いてねぇんだ。」
カレルは申し訳なさそうにそう言ったが、それ以前の問題だった。意味不明な記号や暗号が矢印や線で繋げられたり、○やら□やらで囲われたり。その所々に箇条書きがされてはいるが、それも略号だらけで、他人にとっては落書き同然。
「……『キ』ってなんだ?」
「騎兵の『キ』。『ホ』は歩兵の『ホ』。」
「この、サスマタみてぇのは?」
「ルムの角に見えるだろ?」
「…ひょっとして『へ』に羽が生えたようなのは…飛竜か?」
「おっ!察しがいいねぇ!」
誉められたところで、これでは全く使えない。唯一の拠り所を失って、友人らはがっくりと肩を落としている。それらの会話を耳の端で聞いてたライマーは、一体どんなノートなのかと気になり、本から視線を上げた。すると、カレルの視線とぶつかった。
「なぁ、ライマー。こいつらにノート貸してやってくれねぇか?」
「…。」
学科の内容など、とうに頭に入っている為、ノートは既に用済みになっていた。だからといって貸してやる義理はないのだが、カレルの頼み込むような目を見たら何故か断ることが出来ず、ライマーはため息をついて、黙って差し出した。ノートを受け取った二人は、まさかライマーが貸してくれるとは思っていなかったようで、戸惑いの表情を浮かべている。そんな友人らに代わって、カレルが、
「アリガト、な。」
と嬉しそうに礼を言った。鬱陶しい鬱陶しいと思いながらも、どうしても嫌いになれないのは、カレルのこういうところの為だった。
だが、邪魔なものは邪魔だ。また一人、カレルのところにやってきた。
「なぁ…勉強教えてくれねーか?」
ゴードンはクラスの中でも歳がいってる方で、明らかに年下のカレルにそう頼むのは、余程切羽詰まっているのだろう。バツが悪そうに視線を逸らしながらの頼みを、カレルは快諾した。
「いいぜ。」
ライマーは眉に皺を寄せた。目の前でごちゃごちゃとやられたら気が散って仕方がない。だが、ライマーがそういう前に、
「あっちでやろうぜ。」
とカレルはゴードンを伴って離れていってくれた。
(どうやら、あいつなりに気を遣ってはいるらしいな。)
ライマーはちょっとほっとした気分で、集中して勉強に取り組み始めた。
「だから、難しく考えることねぇって。分数の掛け算は、上同士、下同士をかけてやりゃいいだけなんだ。な?」
「あ…ああ。」
Bクラスの中でも、ダントツに頭の悪いゴードンは、熱心に教えようとするカレルに、歯切れの悪い返事を返した。
「んじゃ、分母…っつーか、この線の下の数はどうなる?8×4=?」
「……12?」
カレルはしんと固まった。ゴードンは分数以前に、まだ掛け算ができていなかったのだ。学科の一番最初に四則演算は習った筈なのだが。
「違った、14だろ!」
ゴードンは慌てて訂正したが、
「成る程、わかった。」
と、慰めるように背中を叩いたカレルの表情から、答えが違うということを嗅ぎつけ、途端にペンを投げ出し、やる気のない顔つきになった。
「俺ァ…学校行ってねぇしよぉ…。そのせいで、学科も端ッからちんぷんかんぷんでよ…」
「俺も学校なんか行ってねーよ。けど、出来る。ってことは、アンタも当然出来るってことだ。」
Aクラスに入っているカレルが出来るからといって、Bクラスでもドン尻の自分にも出来るとは到底思えないと、ゴードンは疑り深い視線を投げた。
「大丈夫!最初はみんな出来ねぇんだ。いきなり出来る奴がいたら、そりゃ神だ。そうだろ?」
「あ…ああ。」
「掛け算ってのはごちゃごちゃ理屈考えるより、覚えた方がはやい。」
「お、覚えるのか!?」
カレルは紙にさっと格子状に線を引いた。そして、縦と横に1から9の数字を書いた。
「コレに答えを書き込んでいくんだ。まあ、百回もやりゃ出来るようになってるはずだ。」
「ひゃ、百回!?む、無理だ!」
ゴードンがそう言った途端だった。
「ああッ!?」
ライマーは、その剣幕に思わず顔を上げた。周囲の者達も同様に驚いた表情で、ゴードンの胸倉を引っ掴んでいるカレルを見ている。いつだって明るくおちゃらけているカレルが、まさかあんな風に怒るとは。シンと静まり返った中、カレルは胸倉を掴んだまま、ぐいとゴードンを引き寄せた。
「ここで掛け算ができるようになるか、一生出来ねぇままでいるか。アンタはどっちをとるんだ?」
口調はいつもの軽い調子に戻っていたが、目が笑ってない。自分よりも年下で、しかも体格も小柄なカレルに、ゴードンは完全にびびった。
「ぐ…で、出来るように…なる…。」
すると、途端にカレルはニッコリと笑顔になり、胸倉から手を離して、ゴードンの背中をぽんぽんと叩いた。
「よーし!さすがゴードン兄貴!それでこそ男だ!」
(あれは、9マス計算?何でそんな事知ってるんだ…?)
ライマーはカレルが書いた表を見て不審に思った。学校に行ってない人間が、どうしてそんな事を知っているのか。そもそも分数の計算が出来るというのも変だ。
(学校に行ってないというのは嘘じゃないか?それか、何か事情が……っと、いかん!気を散らすな!)
叩き上げから出世する為には、成績などで遅れをとるわけにはいかないのだと、自分にカツを入れ直し、カレルが人の世話を焼きまくっているのを尻目に、ライマーは自分の勉強に専念した。ライマーは自分の事だけで必死だったのだ。