小説☆カレル編---ライマー・シューゲル(5)

試験が終わると、追試に合格出来なかった者は退学となり、それ以外の者には3日間の休暇と、微々たるものではあるが給付金を与えられる。皆、久々の帰郷に浮かれた様子で兵舎を出て行った。だがライマーだけは、自分には最早帰る家などないと、一人兵舎に残った。

いつもは人や荷物でごった返している共同部屋も、今はシンと静まり返り、広々と感じる。

  (3日間、何をして過ごそうか…。)

勉強もいいが、たまには気分転換も必要だと何となく思ったライマーは、ふらりと街に出かけ、本を買い、部屋でのんびりと読書をしていた。



その夕方、カレルが早々と戻ってきた。カレルは勿論、最高得点で追試をパスしていた。

  「お!ライマーじゃねぇか。なんだお前、帰らなかったのか?」

手にはリンゴが入った袋を持っていた。母から貰ったのだという。早速その内の一つをライマーにぽいと投げた。カレルは殆ど物を持たぬというのに、その僅かな物さえこうして気前よく分け与えてしまう。しかもさり気なく渡してきたそのリンゴは、一番大きくて綺麗なものだった。

  「お前はもう帰ってきたのか。」

  「まぁな。…俺がいたら邪魔か?」

カレルは向かいの席に座りながらライマーの瞳を覗き込み、窺うようにニッと笑った。

  「いや、別に。」

ライマーは本心でそう言った。カレルには聞きたいことが色々あったのだ。読んでいた本を閉じると、貰ったリンゴを二つに割わって片方をカレルに渡した。自分が食べる用に、傷みが早くきそうなリンゴを選んでいたカレルは、それを受け取とるときにチラッと笑って礼を言った。ライマーがカレルの心遣いに気付いたのと同様に、カレルもライマーの気遣いに気付いたのだ。

そのリンゴは甘みが少なく、大して美味いものではなかったが、息子に食べさせたいという母親の愛情がいっぱい詰まっているのを感じて、ライマーは自分の母のことを思い出した。自分が出て行くとき、最後まで泣いていた母。今、誰もいない家で、一人ぽつりと何をしているだろか。それを思うと、二度と帰らないという決心がぐらつきそうになる。そんな自分の気持ちに気付いたライマーは、無理やり気持ちを切り替えた。

  「久々の実家はどうだった?」

  「何とかやっていけてた。オヤッサ…オヤジが頑張ってくれてるみてぇだ。」

羽を伸ばせたか、というつもりでライマーは聞いたのだが、返って来た返事はそういうものだった。

  「オヤジは大工でな。仕事がある時とねぇ時の差が激しいんだ。最近たまたま仕事が入ったらしくて、そしたら気前よくリンゴをこんなに買って、その挙句今夜はご馳走だとか言い出したんで、もうそそくさと出てきた。…やっぱ俺が家計を握っとかねぇと不安で仕方がねぇ。」

  「お前の親は子どもに家計を任せてたのか!?」

ライマーとってそれはは信じられない事だった。

  「そう。お袋の切符のよさと丼勘定っぷりは天下一品だからな。自分でもそれがわかってるもんだから、『お前がしっかり財布の紐を縛っといておくれよ。』って財布を渡されてた。」

成る程、カレルの気前の良さは母親譲りなのか。そして、その母親は自分よりも息子を信頼しているらしい。

  「親父さんは?」

  「『とーさんは甘いからダメ!』ってさ。確かに、渡してた小遣いは、殆ど弟妹らのオネダリに使ってたからな。」

  「…仲がいいんだな。」

  「お前んとこは、良くねぇの?」

  「俺には兄弟はいない。父はあちこちで商売をやっていて殆ど家にいないから、家ではいつも母と二人だった。」

  「そしたらお袋さん、お前が帰ってこねぇと寂しいんじゃねぇの?」

ライマーはシンと黙り込んだ。そして、

  「…かもな。だが、いい加減、子離れすべきだ。」

そう言いながら、立ち上がってリンゴの芯をゴミ箱に捨てた。底にポツリと落ちたリンゴ。何故か目が離せなくなる。

  「前から聞きたかったんだが、お前、なんで一般兵に入ったんだ?士官学校に入ればよかったのに。」

振り向くと、カレルはライマーの本の表紙を眺めていた。カレルはリンゴを芯も残さず食べてしまったようだ。ライマーは席に戻りながら答えた。

  「……入学金を払えなかった。」

  「何で?親父さんがあちこちで商売やってんなら金はあるだろう?」

ライマーは簡単に事情を話してやった。すると、

  「ばっかだな、お前。変な意地張らずに親に金払ってもらえばよかったんだ。」

カレルは心底そう言った。しかし、ライマーは、

  「それはできん。」

と、頑としてつっぱねた。

  「何で?」

カレルは不思議そうにそう尋ねた。

  「『親の世話にならない』と宣言した以上、それは覆すわけにはいかん。都合が悪くなった途端、頼ろうなんて、そんな恥知らずな真似はできない。」

  「恥知らずねぇ…。まぁ、いいけど。」

何やら含みを持たせた言い方。

  「何が言いたいんだ?」

  「もうちょっと肩の力を抜いていいんじゃねぇかってな。」

  「肩の力を抜いて、親に頭下げて頼めって?お前だったら、そうするんだろうな。」

だが自分には出来なかった。すると、カレルは笑った。

  「俺だったら、言われるままに商売継いでるさ。お前みたいに、これをしたい!ってのがねぇから。」

やりたい事がないというのは、ライマーにとっては信じられないことだった。

  「でもまぁ、お前の立場で考えるとするなら…そうだな、俺なら商談を持ちかけるな。2年後に倍にして返すから貸してくれ、とかな。商売上手な親父さんなら、きっと乗るだろ。」

  「親に商談だと?」

  「縁を切ったんなら、親じゃない。取引相手だ。」

親を取引相手…。

  「そう考えたら恥でもなんでもないだろ?お前は親を『親ーッ!』って思い過ぎなんだ。」

  「…別に思いすぎてるつもりはない。」

  「本当にそうか?」

ライマーは黙った。ひょっとしたらカレルの言うとおりなのかもしれない。だから、親を単なる取引相手と思い切れないのではないか。しかし、それ以上この心のもやもやを突き詰めることは出来ず、ライマーは話を変えた。

  「そう言えば、俺も聞きたかったんだが。お前は本当に学校行ってないのか。」

  「ああ。」

試験での一件以来、ライマーはカレルが嘘を付いているのではないかという疑念さえ抱いていた。

  「なら、どこで勉強習ったんだ?」

  「親父。学者なんだ。」

  「学者?さっき大工だと言ってただろう。」

やはりこいつは嘘つきだった。その途端、今までの話や態度までが全て嘘だったように思えて、話す気が一気に失せたライマーは、話を切り上げようと再び本を開いた。

  「それは今のオヤジ。お袋、再婚してんだ。俺の親父とは俺が六歳の時に別れた。」

ライマーは本から目を上げた。カレルと目が合う。カレルはニッと笑った。今の自分の態度を観察していたらしい。ライマーは少々居心地が悪くなったが、カレルは構わず話し始めた。

  「それが呆れるくらい教育熱心な親父でな。英才教育っていって、毎晩、俺に哲学書を読み聞かせてた。まあ、目に見えて効き目が現れたのは睡眠効果くらいだったけど、親父はめげなかったなー。」

しかし、腑に落ちないことが一つ。

  「大学で習うような数学の知識を、お前はたった6歳で習得したのか?」

  「いや……」

カレルは言葉を濁らせた。ライマーはじっとカレルがその先を言うのを待った。するとしばらく迷った後、これは絶対に誰にも言うなよ、と前置きをして、真実を語り始めた。

  「実は俺、家族には内緒で、今も親父に会ってんだ。」

そういって、カレルは語り始めた。

  「朝は配達の仕事をして、そのついでにあちこちの家とかゴミ捨て場を回って、廃材とか、いらなくなった物とかを集めて帰ってくるのが俺の日課だったんだ。ほら、オヤジ…って義理の父親の方な。俺はオヤッサンって呼んでんだが、オヤッサンは大工だから、それで箱とかを作って、それを食べ物と交換してもらったりするわけだ。」

事情があるのかもしれないが、子どもを働かせ、その挙句にゴミ漁りや物乞いのような真似をさせる親に、ライマーは内心目を剥いた。

  「荷車引いて、隣町まで行ったりしてたから、親父の家の前をよく通ってたんだ。6歳のとき以来だったから、会ってみてーなーって思ってたんだが、お袋やオヤッサンに対して遠慮があったし、親父は俺に会いたくないかもしれないって気がして、一歩が踏み出せなかった。けど、お袋がオヤッサンと再婚した日、それを報告するって理由で、思い切って訪ねてみたんだ。」

  『かーさん、再婚したぜ。』
  『……そうか。』
  『とーさんもすればいいのに。』
  『いや、もう結婚はこりごりだ。』
  『……もしかして、かーさんに惚れてた?』
  『………そうだな。まあ、51%というところだ。』
  『かーさんも、とーさんはいい男だったって今でも言う。何でそれで別れたりするんだ?……俺のせいか?』
  『それは違う。君が生まれてなかったら、もっと早くに別れていたよ。』
  『じゃあ、何が原因なんだ?』
  『きっかけは私がかーさんをぶってしまったことだ。あれだけは本当に反省している。だが、大もとの原因は、恋愛と結婚は違うということがわかっていなかったことだろうな。』
  『なんで?好きだから結婚すんじゃねぇの?』

  「親父はそれに答えずに、ただ寂しそうに笑った。なんか、そんな親父を元気付けたかったっていうか。その場の思いつきで、勉強を教えてくれって言ったら、そりゃ〜あ嬉しそうに次から次へと教えてくれた。あまりの勢いに、最初はこりゃ大変な事になったと思ってたけど、すぐにそれが面白くなってきて、時間があるときには、ちょくちょく寄ってたんだ。」

  「親父さんは何も言わなかったのか?…その…お前の…暮らしぶりに。」

あからさまに聞くのは流石に気が引け、ライマーは言葉を濁した。だが、カレルはライマーが言わんとした事を正確に把握して答えた。

  「いやー、俺が学校にも行かずに働いてるって知ったときは、もう怒り心頭!ってやつだ。『カレルを引き取る!』って怒鳴り込み行こうとするのを、俺はも〜必ッ死で止めた。弟妹たちは小さかったし、ホントにどうにもならねぇ状況で、お袋とオヤッサンは俺に頼らざるを得なかったんだ。」

そこでカレルは目を伏せ、小さく笑ってポツリと付け加えた。

  「……それに、本当は親父も俺を引き取る余裕なんてねぇのを、俺は知ってたんだ。時々、窓から覗いたりしてたから。」

金がないばっかりに、我が子を引き取ることも出来ない親の気持ち。まだ幼い子どもを働かさざるを得ない親の気持ち。大人の事情の為に、多くのことを諦めなければならない子の気持ち。それらが交差した中で、カレルが見せたなんともいえない寂しげな表情に、ライマーは言葉もなかった。だが、そんな表情を見せたのは一瞬で、カレルはそれらを吹っ切るかのようにふっと溜息つくと、口調を明るく戻した。

  「昔に比べて学生が随分減っててな。皆兵隊になっちまうって、親父はぼやいてた。だから俺も軍に入るっつったら、相当ガッカリしてたっけな。今日もここに戻る前にちょっとだけ立ち寄ったんだけど、顔を見るなり『やめてきたか?』だとさ。ははは。」

本当は泣きたいのを、こうやって明るく笑い飛ばすことで堪えているのではないか。ライマーにはそう思えてならなかった。

やりたい事がないと言ったカレル。しかし、カレルにはあれをやりたいこれをやりたいと思う暇どころか、選択する余地すらなかったのだ。家族を支え、毎日を必死で生きながら、ただ自分の運命を受け入れる。そうするより他にないから。いつだったか、カレルは金のためにここに来たと言った。しかし、それはつまりは家族の為だったのだ。

  「お前こそ、こんなところに来ずに、学者になればよかったじゃないか。」

ライマーはそう言ってみた。

  「ははっ!冗談だろ!?学者ほど金になんねー職業はねぇよ。その日の食い扶持を全部本につぎ込んじまいかねない人種なんだぜ?」

  「金を抜けて考えたら?」

カレルは急に黙り込んだ。そうして長い長い沈黙の末に出した答え。

  「……人間学には興味あるかもな。」

それは初めて耳にする言葉だった。

  「…人間とは何かっていうやつか?」

  「そうそれだ。」

  「成る程…。確かに金になりそうにないな。」

  「むッ!金を抜けて考えろっつったのお前だろ。」

  「ははっ、そうだな。それで?」

  「人間って奴は、わかっているようでわからない。自分自身のことすら全てをわかってるわけじゃない。最も身近で、最も深い謎に包まれてる存在。その謎を解明してみたい…なーんてな!今、俺ちょっと格好良かった?」

それを聞いて、カレルが何故あんなにも人と関わろうとするのかが腑に落ちた。

  「親父は数学が専門でな。ある日ふと、恋の方程式を考えてみようと思いついたらしいんだ。それで、それこそ何日も何日も寝る暇も惜しんで、理論をこねくり回して、出会いの確率だの好きになる確率だのを計算しまくった挙句、出た答えが『全ての恋愛に当てはまる方程式は存在しないという事がわかった。』だとさ。笑えるだろ?親父、クソ真面目にそういうところがあって面白ぇんだ。」

父親が面白い…。そんな発想ライマーにはない。ライマーにとって父親は父親であり、『面白い』などという対象ではなかった。そこが『親と思い過ぎている』ということなのだろうか。そう、ライマーが自分自身の心をつかみかねていると、それを指摘した当の本人はそんなことなどすっかり忘れて、目を輝かせて活き活きと語った。

  「数学なんかじゃ到底解き明かすことの出来ねぇ世界が、一人一人の中にあるわけだ。凄ぇ事だと思わねぇか?」

カレルの豊かな表情の中でも、それは初めて見る輝きだった。

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