アランが今日は休みで、昼食を作るというので、昼には家に帰ることにしていた。
そして、腹が減ったので予定を繰り上げ、アルベルは早めに修練場から帰ってきた。
その途中でアランの背中を見つけ、声を掛けようとした時、傍に女がいる事に気付いた。
「アラン様。私、あなたの事を愛しています!」
女がアランに駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
(!!)
アルベルはその場に凍り付き、その光景を食い入るように見ていると、アランが女の肩に手を掛けた。
それを見た瞬間、アルベルの心の闇から真っ黒な手が伸び、アルベルの心臓ひやりと包み込んだ。
(裏切られた。)
アルベルはその光景に背を向けると、そのまま家に帰って、ソファにドカッと腰を下ろした。
(俺の事を愛してるだとか、俺だけだとか言ってた癖に、ちゃっかり女とよろしくやってんじゃねえか。)
これまでアルベルは、アランの事を受け入れようと努力してきた。それで助けてもらった借りを返すと約束しかたらだ。
そして、次第にアランの事がわかってきて、アランとの生活が心地良くなり、アランの「愛しています。」という言葉を、少しずつ信じるようになってきていた。
愛されることの温もりに戸惑いながらも、飢えた心が満たされていた。
命がけで自分にすがって来るアランの気持ちに、なかなかうまくは出来ないが、自分なりに答えてやろうと思っていた。
それを、裏切られたのだ。
とにかくアランがどういうつもりなのか、様子をみてから考えようと自分に言い聞かせ、何食わぬ顔をして待っていたのだが、アランはなかなか帰ってこない。
(遅すぎる!あいつは一体何をしているんだ!…まさかあの女と…。)
あの光景が目に焼き付いて離れない。女の肩にかけられた、あの手に触れられて感じたり、優しい気持ちになったりしていた自分が酷く惨めに思えた。
渦巻く感情にイライラとしながらアランを待ちうけた。
アランはそれから一時間ほどたってようやく帰ってきた。
「アルベル様。お帰りだったのですか?」
アルベルは冷たい視線をアランに向けた。
「今まで何をしていやがった。」
低く押し殺したようなアルベルの声に、
「すみません。ちょっと色々あったものですから…。」
と慌てた。そして、昼食にはまだ少し早い時間だったのだが、きっとアルベルは空腹なのに違いないと勘違いした。
「色々?」
「ええ。すぐ食事の用意をします。」
とアランはアルベルが聞きたかった答えを言わず、さっと食事の準備にとりかかりにいった。
それが、アルベルにはアランが何かを隠しているように思えた。
(俺には言えねえ事か?)
『色々』という言葉から、文字通り色んな想像が飛び出してくる。
アランは急いで食事の用意をし、
「アルベル様、お待たせ致しました。」
と呼びかけたが、アルベルは背を向けたまま動こうとはしなかった。
アルベルの様子がおかしいと感じたアランは、アルベルに近づき、その肩に手を置いた。アルベルは、その手を、
―――女の肩にかけられたアランの手
と思った瞬間、
「触るなッ!!」
バシィッとアランの手を叩き落とした。
アランはあまりの事に呆然とした。
「ア、アルベル様?」
アルベルは無言のまま立ちあがると、アランの横を通り過ぎようとした。
アランは慌ててアルベルの腕をつかんだ。アルベルはそれも振りほどこうとしたが、アランはしっかり握って離さなかった。
「離せッ!!!」
「嫌です!どうしてそんなに怒ってらっしゃるのです?訳を…!」
「ふん。てめえの面をみたくねえだけだ。この薄汚ねえ手を離しやがれッ!!」
その途端、アランはひどく傷ついた顔をし、手の力を抜いた。アルベルはそのアランの表情にはっとしながらも、
「フン。」
と手を毟り取り、アランを残して部屋から出て、そのまま家を出ていった。
(あいつ、傷ついた顔をしていやがったな…。)
アランの悲しそうな顔が浮かび、アルベルは胸が痛んだ。だが、謝りに戻る気にはならない。
しばらく、あてども無くフラフラしていたが、やがて目的をもった足取りですたすたと歩いていった。
アランは力無く椅子に座りこんで、じっとアルベルが豹変した原因を考えていた。
今朝までは普通に会話をしていたし、最近はアルベルから話しかけてくれることが多くなってきていて、二人の仲もだいぶ進展したものだと思っていたところだったのだ。
それが、帰ってきたらあの状態だったのだ。帰ってきて昼食ができてなかったことを怒るにしては度が過ぎる。第一、アルベルはそんなことで怒ったりはしない。
(ひょっとして、この二人の関係が周りにばれたのだろうか?)
だが、アルベルは自分との事を別に隠そうとしてはいなかった。兵士の前でも普通にアランと会話をしていた。
―――この薄汚ねえ手を離しやがれッ!!
アランの胸がズキリと疼き、アランは自分の手を見つめた。
(そうだ。アルベル様はこの手を汚いとおっしゃった。)
つまり原因は自分にある。
何か自分がアルベルの気に障ることをしたか。
自分が今までヴォックスの下でしてきたことを知って嫌悪感を抱いたか。
自分の冷たい本性に嫌気がさしたのか。
(そういえば、アルベル様にスパイ容疑をかけ投獄させたのだった。)
ひょっとしたら、それが自分の仕業だったとばれたのかもしれない。
(とにかく、アルベル様に聞いてみないとわからない。)
とアルベルを探しに出かけた。
一方、アルベルは両親の墓の前に座っていた。
アランのあの表情を見て、なんとなくここに来てみたくなったのだ。
アランの傷ついた表情と母の悲しみの表情が重なる。
アルベルは落ち着いて気持ちを整理し始めた。
(よく考えてみれば、あいつが女と結婚でもしてくれりゃ、俺は解放されるんだ。願ってもねえことじゃねえか。)
と思いがらも、裏切られた思いがどうしても拭い去れない。
(あいつは決して裏切らない、嘘をつかないと約束した。―――約束…した。)
―――あなたに対しての言葉だけが真実ですから、それを信じてください。
アルベルは、アランがいつか自分にそう言っていたことをふっと思いだし、冷静になった。
(そういえば、本当の事を確かめてなかった。)
ただ勝手に思いこんで、勝手に怒っていたことに気付いた。
(とにかくあいつの話を聞いて、それからどうするか決めるか。)
と立ちあがると、アランが離れたところにぽつんと立ち、まるで捨てられた子犬のような目で、こちらをじっと見ていた。
アランはアルベルを必死に探し回り、ひょっとしてと思った場所にアルベルを見つけた。
だが、どうしても声を掛けられず、離れたところに立ちつくしていると、あたりが夕闇に包まれ始めた。
やがてアルベルが立ちあがり、こちらを見た。
アランは震える気持ちを奮い立たせて、アルベルに近づいた。
「アルベル様。…最初に決めた約束事を覚えていらっしゃいますか?」
―――どんな事があっても、夜は同じベッドで一緒に寝ること。昼間どんなに喧嘩をしたとしても、またどんなに顔も見たくないと思ったとしても、絶対に夜は顔を合わせ、仲直りをして、一緒に寝るということ
「…ああ。」
「では、戻りましょう。」
その言葉に、アルベルは大人しく従った。
アランはアルベルの少し後を歩きながら、すがるようにじっとその背中を見つめていた。アルベルが自分との約束をちゃんと守ってくれることに少しほっとしたが、これからどうすればいいのか、どうやってアルベルを繋ぎ止めればいいのか。考えようとしても思考は空回りするばかりで、それでも、何が何でもアルベルを放したくないと必死に考えた。
家に帰るまで、二人は一言もしゃべらなかった。
寝室に入ってベッドに腰掛け、ようやくアランが口を開いた。
「お怒りの原因を教えてください。」
「…その前に、今朝から何をしていたか言え。」
アランは頭の上に疑問符が浮かんだが、言われた通りにした。
「まず、アルベル様をお見送りして、朝食を片付け、部屋の掃除をしました。それから、洗濯物を片付けて、昼食の買出しにでかけたところ、女に声をかけられ…」
そこでアルベルが口を挟んだ。アルベルは声の調子が普段通りになるように細心の注意を払った。
「誰だ?」
「さあ、もう忘れました。少し話した後、店に行って買い物をすませ…」
「何を話した?」
アランは言葉を詰まらせた。
(アルベル様は一体何を聞き出したいのだろう?)
と思いながらも、アルベルがジロリと睨んできたので、正直に答えた。
「大事な話があるというので付いていったら、なんのことはない、ただの恋の告白だったので、話を切り上げて…。」
「それで?」
「それから、買い物をして…」
アルベルは何か言いたそうにしたが、あまりにつつくとアランに何か感づかれそうで、黙って続きを促した。
「帰る途中、…父に会いました。」
「お前の父親?」
アルベルが目をバチクリとさせた。
(まあ、こいつに家族がいても別に不思議じゃねえか。)
その当たり前の事に気付かなかったのは、アランが今まで一度も家族の話をしたことがなかったからだと思い当たった。
「はい。前、住んでいた家を、突然引き払ってしまったものですから、父が私のことを調べて、訪ねてこようとしたのです。」
(調べて?)
アランの言葉に不穏な響きが混じっている。
「絶対に、ここに来させるわけには行きませんから、兵舎の方に連れて行ってなんとか誤魔化して帰らせるのに時間がかかり、ようやく家に帰りついたらあなたが待っておられたので、昼食の準備をし、…後はご存知の通りです。」
「…。」
アルベルは自分がしてしまったことを恥じるあまり、しーんと何も言えずにいると、アランは悲痛な面持ちでアルベルを見つめ、
「私が何か気に障るようなことをしたのでしたら、どうかおっしゃってください。絶対に直してみせますから、どうかお願いです。私にチャンスを下さい。」
と必死に言い募ってきた。それに耐え切れず、アルベルは目をそらした。そして、
「悪かった。」
と、唐突に謝った。アランは驚いてアルベルの横顔を凝視した。
「え?」
「俺が悪かった。」
「どういう…事ですか?」
「理由は言いたくねぇ。」
「…私を許してくださるということですか?」
「許すも何も、お前は何もしていない。全面的に俺が悪い。」
「では、…抱きしめても、いいですか?」
アランがすがるようにアルベルの顔を覗き込んだ。
アルベルはチラリと気まずそうにアランを見ると、
「ああ。」
と頷いた。アランはおそるおそる手を伸ばして、そっとアルベルを腕に包み、そしてぎゅっと抱きしめた。
「良かった…。」
抱きしめられながら、アランが泣いているのがわかり、アルベルは切なくなった。自分の猜疑心のせいで、アランを傷つけ、悲しい思いをさせてしまったのだ。
「薄汚ねえなんて言って悪かった。」
アランはアルベルを抱きしめたまま、黙って首を振った。