アランはアーリグリフ城の執務室へ入ると、まず鏡で自分の顔をチェックした。目の腫れはひいたようだ。泣き腫らした顔を人に見られなくて良かった。しかし、昨日の今日でカレルと顔を合わせ辛い、そう思っていると、漆黒の兵士が伝令に来た。カレルが体調不良のため、今日は職務を休むとのことだった。アランは、昨日のカレルの様子を思い出した。カレルは血を吐くような告白をしながら、今にも崩れそうなのを必死で隠していた。カレルがどれ程の苦しみの中にいるか、アランには実感としてわかるだけに、あれからどうしたのか気になった。それで、
「容態は?」
と尋ねたが、その兵士はそれ以上の情報を持っていなかった。アランは落ち着かない気分になった。
(これは…不安?)
何故そんな気分になるのか。その理由を探し、カレルのアーリグリフ滞在期限は明日までだというのに、再編は全く進んでいないからだ、と思い至った。そもそもカレルは疾風の再編の為にここに来たのだ。それなのに、カレルはそういう話を一度もしてこなかった。
『まあ心配するな。ヤツは必ず成果を出してくる。』
アルベルはそう言ったが。まあ、成果を出せなければ、その時考えればよいと結論付け、アランはいつも通り執務に取り掛かった。だが、カレルの事がちらりと頭をかすめ、いつまでも不安は晴れなかった。
次の日。カレルは朝一番に姿を現した。見た感じ元気そうだ。
「体調は良くなったのですか?」
「ええ、お陰様で。」
カレルはそう言いながら、微かに微笑んだ。
「…何か?」
アランがそれを咎めると、カレルは今度はハッキリと笑みを浮かべた。
「俺の心配をしてくれたのがなんか嬉しくて。」
そう言われて、アランは初めてそれに気付いた。昨日からずっと感じていた不安が、カレルの顔を見た瞬間に消えたことに。
「私があなたを心配?…何故?」
アランは信じられない思いで、思わずカレルにそう問うた。そういえば遺跡でも同じことがあった。4分の1の確率で死ぬかもしれない選択肢を選ぼうとするカレルを思わず止めたのだ。
『有難うございます。俺を惜しんでくれて。』
カレルがそう言ったとおり、確かにあの時自分はカレルを死なせたくないと思った。今だって、確かに自分はカレルを心配した。アルベル以外の人間にこうした感情を持つなど、考えられないことだ。
「何故と言われても…。」
アランのあまりの驚きっぷりに、カレルは苦笑した。
「本来、あなたはそういう優しい人なんですよ。」
その優しさは今までアルベルだけに絞られていた。その対象が増えたというのはいい兆候だ。だが、アランにはその自覚が全くないようだ。
「優しい?私が?」
アランは鼻で笑った。
「そうでないことは自分がよくわかっています。」
「そうですか?自分の事って、案外わかんないもんですよ?俺はその優しさがもっとたくさんの人に向けられたらいいと思います。」
カレルの笑顔にアランが戸惑っていると、カレルは「それはさておき…」と話をかえ、書類の束を差し出してきた。
「はい、これ。これで全部です。」
『アルベル・ノックス解体新書』の最後の数ページだ。アランはそれを受け取りながら言った。
「これで『全部』ではないでしょう?」
「え?でも、持ってる分はこれで…」
「これは今後も増えていくのでしょう?」
流石アラン。抜け目がない。
「…わかりました。じゃあ、1ページ増えるごとに送ります。」
アランは今まで受け取っていた分を鍵の掛かった引き出しから取り出すと、今日受け取った分を重ねて端を揃えた。相当な量だ。まだ最初の部分しか解読できていない。それでもかなりの情報を得ることができた。時間を見つけてそれを解読するのが今の楽しみだ。これは当分楽しめそうだと、満足げにページをめくっていると、カレルが語りかけてきた。
「これは旦那のほんの一部に過ぎません。本当はもっともっと分厚い。そしてそれは旦那だけじゃなくて、誰もが持っているものなんです。目の前にいる人間がどれだけの歴史を抱えているか。それがどれほど尊いか。…あなた自身も含めて、ね。」
今日は何故かカレルの言葉がすんなり耳に入ってくる。
「で、はい、これ。」
カレルは一枚の紙を差し出した。そこには名前と出身、簡単な経歴が書いてあった。疾風測量係クロード・セルヴェストール。36歳。アランの知らない名だった。それよりも気になる点が。
「測量係とは何です?」
「池の氷の厚みを毎日決まった時間に測るんだそうですよ。」
それに一体何の意味があるのか。しかもわざわざ『係』としているとは。アランは苦々しく思いながら続きに目を通した。
出生は貴族ではあるが、セルヴェストール家はそう大した家柄ではない。士官学校の成績は普通。書類上では何の特徴も取り柄もない人間と判断される。
「それで?この者が何だというのですか?」
「貴方の側近として、クロード・セルヴェストール氏を推薦します。」
疾風の再編の為にここにやってきて、それらしいことをしたのはたったこれだけ。
「…一人だけですか?」
「はい。部外者の俺が手出しできるのはここまでです。後は彼と相談してください。」
アランは『部外者』という言葉にむっとした。カレルの言うとおり、カレルは本来部外者だ。アルベルの命令でここに来ているだけ。
なのに、どうしてそれが心に引っ掛かるのか。
敵が現われたとき、カレルはアランを庇うように前に進み出た。だがあれも、そうするのが任務だから。それが当たり前。でも、あの告白は…?
あれはアランの為の告白だった。カレルは、アランの為に自分の心の傷を開いて見せたのだ。任務のためとはいえ、そこまでしてくれる人間は今まで一人としていなかった。人の心に勝手に踏み込んでおいて、今更部外者などと無関係を装うとは…。その気持ちが言葉に出た。
「なんと無責任な…。」
「いやいや。俺なんかが下手に手を出すよりきっと良いものができるはずです。」
『俺なんか』?この男以上の頭脳の持ち主がどこにいるというのだ。体(てい)の良い断り文句にしか聞こえない。
「…この人物を推す、それだけの理由があるのでしょうね?」
「勿論!彼は貴方の良き理解者となるでしょう。」
『理解者』…?戸惑うアランに、カレルはニッといたずらっぽく微笑むと、ぱっと真面目な顔に戻って姿勢を正した。
「漆黒アルベル・ノックス精鋭部隊長カレル・シューイン。本日、カルサアに帰還いたします。お世話になりました。」
カレルは一礼し出て行った。
(理解者…?)
一人残されたアランはじっと考えた。
理解者とはつまり、カレルのような存在のことなのか?
クロード・セルヴェストールという人間がそうなるというのか?
だが、知らぬ人間から踏み込まれるのは嫌だ。
カレルがこのまま疾風に残れば、そうされずに済むのに。
しかしカレルは、他でもないアルベルの部下なのだ。返さないわけには…
そこまで考えたとき、アランははっと我にかえった。
(私は何を考えているのか!?理解者など必要ない!)
アランはすばやく気持ちを切り替え、部下を呼んだ。
「測量係クロード・セルヴェストールを呼びなさい。」