足元で土下座をするカレルを、アルベルは暖炉の前の三人がけのソファの中央にふんぞり返って、気分よく見下ろした。アランも暖炉を囲うように置かれたおしゃれな肘掛椅子に座って、アルベルが楽しんでいる様子を見守っている。
「軍を辞めるという話、どうか思い直して頂きたい。」
「さあ…?お前には散々な目に合わされたからな。」
「旦那に辞められては困るんですよ。」
「フン、知ったこっちゃねぇな。しばらくお前のツラは見たくねぇ。」
カレルはシーンと黙り込んだ。正座したまま、神妙な面持ちで地面を見つめている。
「?」
アルベルが怪訝に思っていると、カレルは我に返った。
「ちょっと……また…出直してきます。」
わざわざ謝りに来た割に、あまりにもあっさりと引き下がるカレルに、アルベルは不審な目を向けた。きっと何か企んでいるに違いないと思ったからだが、どうも様子がおかしい。
「…どうした?」
「あ…いえ…ちょっと考え事を…」
カレルは笑いながら立ち上がろうとして、グラリとバランスを崩した。
「す…すいません…ちょっと…立ちくらみ…。」
蒼白な顔で、しかしいつもの笑みを見せるカレル。
「お前…。」
「寝不足なもんで…すいません…」
カレルは言い訳しながら、今度はちゃんと立ち上がった。
「それじゃ…また…」
カレルがフワフワとした足取りで出て行くのを見送りながら、アルベルは胸騒ぎがした。自分の勘が当たる事を知っているアルベルは、ツカツカと玄関に向かい、ドアを開けた。
それは正解だった。玄関から少し離れた雪の上にカレルは倒れていた。アルベルは急いで駆け寄り、カレルを抱き起こした。
「おいッ!」
しかし、いくら呼びかけても反応がない。飛竜の番をしながらカレルを待っていた部下も、異変に気付いて駆け寄ってきた。アルベルは部下にカレルを抱えさせ、暖炉の前のソファに寝かせた。アランに毛布を持ってこさせ、部下に医者を呼びに行くように命令する。
ぐったりと動かないカレルを見て、アルベルは内心うろたえていた。
どうしよう。ベッドに運んだ方がいいだろうか。しかし、体を温める事が先決だろう。アランが持ってきた毛布を掛けてやりながら、ふと思った。そういえば、ちゃんと息はしているんだろうか。アルベルはカレルの口元に手をかざしてみた。よく分からない…まさか…!?みぞおちの奥が凍りつきそうになったその時、カレルがうっすら目を開けた。アルベルはほっと胸を撫で下ろした。
「俺がわかるか?」
カレルはぼんやりとしていたが、意識がはっきりしてきたのだろう、次第に目に力が戻ってきた。
「ん…?」
やっと状況を把握したカレルは急いで起き上がろうとしたが、
「起きるな!」
とアルベルに頭を抑えられた。だが、
「今、医者を呼んでる。」
と聞かされた途端、カレルは血相を変えた。
「医者!?いいです、もう大丈夫ですから!」
「大丈夫かどうかは医者が決めることだ。」
「じゃ、帰ってから医者に診てもらいます!」
「黙れ。」
容赦なくアルベルに頭を押さえつけられ、命令だと言われれば最早逆らえない。カレルは仕方なく力を抜いた。
もう意識が戻った事だし、本人も帰りたがっているんだからさっさと帰せば良いのに。アランは冷ややかにそう思っていたが、医者の診断は予想以上に深刻なものだった。
「不整脈ですな。原因は過労、ストレス、睡眠不足、偏った食習慣…。このままだと、命に関わります。」
しばらくは絶対安静と言われ、アルベルは、
「今日は泊まっていけ。」
と即断した。それを聞いたアランは眉間に皺を寄せた。
(部下の為にそこまでする必要があるのだろうか?)
と。だが、それを口にすればアルベルは怒る。アランは黙って成り行きを見守る事しかできなかった。しかし有り難いことに、本人がそれを辞退してくれた。
「これ以上、旦那に迷惑をかけるわけにはいきません。」
「迷惑ってのは俺が感じるもんだ。お前が考える事じゃねぇ。」
「こっちの立場を考えてくれねぇと困るんですよ。今日のところは帰らせて下さい。」
「うるせぇ!俺に命令するな。」
頑として譲らないアルベルを見て、カレルはソファの上で横向きに小さくうずくまった。
「もう…ほんとに……どうか…勘弁して下さいよ…。」
その弱々しい姿に、アルベルは亡き母の姿を重ね、ひどく動揺した。
あれは、母が死ぬ数日前の事だった。ベッドに横たわり、ぼんやりと窓の外を眺めている母の横顔が、急に遠くに感じたのだ。
「母上…?」
「なあに?」
確かにそこにいるのに、何となく遠く離れているような気がして、アルベルは不安で何度も母に呼びかけた。
「母上、母上。」
「どうしたの?」
その時の母の弱々しい微笑みが今でも忘れられない。
カレルの小柄な体が、いつにも増して小さく見える。もし本当にこのまま死んでしまったら―――
ふとカレルが顔を上げた。
「ライマーだ。」
何か物音がしたならアルベルにも分かったはず。しかし、そういう気配は全く、感じられなかった。アランを振り向くも、何も気付かなかったと首を横に振った。だが、カレルは完全に確信しているようで、
「何で?アイツに知らせたのか?」
と、部下に咎める口調で尋ねた。それに異様さを感じ、アルベルは医者を見やった。医者も同様に感じたらしい。意識が混濁しているのではないかと、急いで症状を確かめにかかる。
「あなたのお名前は?わかりますか?」
「あの…大丈夫ですけど…。」
「いいから、ちゃんと答えろ!」
「…カレル・シューインです。」
ただ、カレルの問いに答えそびれた部下だけは違う事を考えた。確かにライマーに連絡を送ったからだ。ライマーから何かあったらすぐに知らせるように言われていたのだ。しかし、時間的にまだここにこれるはずがない、そう思っていると、
コン コン
玄関のドアノックの音がした。その音を聞いた途端、カレルはガックリと落ち込んでしまった。
「ああ…もう…何やってんだ俺は…。」
部下が半信半疑で玄関を開けに行くと、果たしてそこにはライマーが立っていた。
部屋に入ると、ライマーはまずアランに一礼してからアルベルに向き直った。
「失礼します。隊長が倒れたと聞きましたので、引き取りに伺いました。」
「…。」
唖然と自分を見る一同の視線に、ライマーは微かに戸惑いの表情を浮かべた。
「…何か?」
「いや…。」
気を取り直してアルベルはライマーに状況を説明した。
「このまま、こいつをここに泊めようと思ったんだが、嫌だとごねやがって。」
アルベルが困った風にカレルを顎で指した。カレルは小さく丸まったままだ。ライマーはそれを起こして背中に背負いながら、
「この近くに、かつてアジトとして使っていた部屋があります。今夜はそこに泊まり、翌朝、状態を見て修練場に戻ります。」
と提案した。ライマーに任せておけば安心だ。アルベルはすんなりと納得した。
カレル達が帰った後、アルベルはドサリとソファに座った。
(アイツ―――)
ライマーが来たとき、カレルが医者の方に素早く視線を動かしたのに気付いていた。何かあるとは思っていたが、後でその意味がわかった。医者に金を渡そうとしたとき、医者が言ったのだ。
「お代は先程の方から頂きました。」
一体、いつの間に渡したのか、その手際も見事だが、あのたった一瞬の目配せだけで2人がやり取りしていたとは、更に驚きだった。いつも、何にも構わないカレルに対して、ライマーが細かく気を配っていると思っていたが、実はカレルがああやってライマーを動かしていたのだ。長年、自分を全力で支えてくれていた人間を、自分は全く見ていなかった事に、今改めて気付かされた。
「…長い間、随分無理をさせた。」
そう言ったきり黙りこんだアルベルを、アランは紅茶を入れながら複雑な表情で見つめた。
(部下の為に、こんなにも心を痛める必要があるのだろうか…。)
アルベル達のやり取りを見ていて感じた、固い結束、そして信頼感。
いずれも、アランにはないものだった。