最近、毎日が楽しい。今日は帰ったらあれをしよう。あそこをあんな風にしよう。そう考えるだけで気持ちが明るくなり、仕事もはかどる。
庭に念願のガーデニングが出来た。まだ一畳程度の広さだが、これから少しずつ広げていくつもりだ。
現場も随分改善された。最初あれほど無能に見えた者達も、明確な指針が与えられたことで、すべきことが見えるようになり、やる気も出たのかテキパキと動き、しっかりとした対応をするようになった。
幹部らの働きも申し分ない。今まで埋もらせてしまっていたのを惜しく思うくらい、優秀な人物ばかりだ。お陰で今までの仕事上のストレスは一気に解消された。
気持ちにゆとりがでれば、人を許せる気分になるらしい。
些細なミスくらいは、どうでも良くなった。
細かいことで腹が立つこともなくなった。
そのお陰か、アルベルから「最近、表情が明るいな。」と褒められた。
実にいい事尽くめだ。アランは毎日を幸せに暮らしていた。
ところが。
アルベルが会議のために久しぶりにアーリグリフ城に訪れた。そこで、アランの勤務時間が短縮されたことを知ったアルベルは激怒した。幹部の人間が、アランをそうやって疎外するつもりなのではないかと考えたのだ。
アランはこうなることを恐れて、この事をアルベルには伏せておいたのだったが、聞かれたことには答えなければならず、結局全て白状してしまった。きっとこれで勤務時間を元に戻さなくてはならなくなる。また元の生活に戻ってしまう。アランは絶望に打ちひしがれた。
「そいつに会わせろ。カレル、お前も来い!」
アルベルはそう言って、カレルを睨んだ。その目は、事と場合によっては容赦しないと言っていた。
アランの執務室で、クロードがにこやかにアルベルの前に立った。アルベルの不機嫌な様子に全く気付いていないかのようだ。
「こいつを早々と帰すとは、一体どういうつもりだ?」
アルベルは開口一番、そう言った。すると、クロードはにこやかに答えた。
「はい、アラン団長のご希望ですので。」
「私は――」
アランは慌てて弁解しようとしたが、アルベルに目で制され、口をつぐんだ。アルベルの目はすぐにクロードに戻った。
「てめぇは側近だろう!?こいつのわがままをそのまま聞いてどうする!?」
「そのままではありません。本当は職を辞したいとのご意思だったのを、譲歩していただいて…」
そういう事を言っているのではない。アランの側近には、自分にとってのカレルのように、間違いを正し、育ててくれるような人物を期待していたのだ。カレルが選んだのなら間違いないと思っていたのに、まさかそれが、こちらの真意を掴むこともできず、こんな見当ハズレな返答しかできない人物だったとは。アルベルは烈火のごとく怒った。
「てめぇは馬鹿か!?それとも俺を馬鹿にしてんのか!?」
アルベルの本気の怒りを前にして動揺しない人間はいない。だが、クロードは穏やかにこう言った。
「とんでもありません。ただ、あなたが何故そのように怒っておられるのかは、わかりかねます。ご説明していただけたら、と。」
「話にならねぇ…。」
アルベルは苛立ちを吐き出し、カレルを睨みつけた。よくもこんなのを連れてきやがって、もうこいつとは口を利きたくねぇ、お前が説明してやれ、ということだ。
「あの…。」
アランが口を挟もうとしたが、怒りの矛先をカレルに向けているアルベルの耳には届かなかったようだ。カレルはアルベルの怒り光線をやり過ごしながらアランを窺った。アランより先に発言するわけにはいかないからだ。だが、アランは自分の方を見てくれないアルベルに、口を開くのを諦めた。カレルはそれを見届けてから、クロードにアルベルの意思を説明してやった。
「団長の言いなりになるんじゃなくて、団長が間違っていた場合はそれをちゃんと正して欲しいと、旦那は思ってるわけです。」
だが、クロードはカレルをたしなめるように小さく首を横に振り、アルベルに言った。
「私はあなたの口から直接伺いたいのです。他人を通じての言葉には感じるものがありません。」
この言葉にアルベルがピクリと反応した。アルベルを覆っていた怒りと落胆の空気が、みるみる緊張に変わっていく。アルベルは慎重に口を開いた。
「…こいつの言う通りだ。てめぇの頭で考えもせず、命令通りにするような人間はいらん。」
アルベルはクロードの目をじっと見据えている。警戒しているのだ。対してクロードは普段どおりの態度で、少しだけ困った顔をした。
「私なりに考えた結果なのですが、あなたのご期待には添えなかったようです。」
口答えという感じではない。例えるなら、一生懸命選んだプレゼントを気に入ってもらえなくて残念といった感じだ。その軽さがこの場の雰囲気にそぐわない。こういう場面で通常抱くであろう感情が、クロードから全く感じられない。事態の深刻さがわかっていないようにも思えるが、そうではないと直感が言っていた。
「どーも噛み合わねぇ…。」
まるで言葉の通じない相手にしゃべっているかのような感覚だ。クロードの、異質な反応にひどく戸惑う。しかし、その青い瞳の奥にある不動の何か。クロードは自分を見つめてくるアルベルの視線を自然に受け止め、にこっと微笑んだ。その瞬間、アルベルはこちらを見透かされたのを感じた。
「お話が噛み合わない原因は、視点の違いにあるように思います。」
「視点?」
アルベルはそれを聞いて、『互いに噛み合わないと思っていた』という点でやっと話が噛み合ったように感じた。だがすぐに、いや、違う、と思い直した。クロードがこちらに歩み寄ったのだ、と。
「アラン団長のご意思を『わがまま』とお感じになられるのは何故ですか?」
「…なんだと?」
「私には切実な『願い』であるように感じたのですが。」
その言葉に、その場の誰もがはっとした。アランでさえ驚いた様子でクロードを見ている。
『私は……本当はずっと家にいて、こういうことをしていたいのです』
アルベルは、いつだったかアランがそう言ったことを思い出した。そして、自分はそれをまともに受け取らなかった事も。
「アラン団長のお話をうかがいながらそれが伝わり、できることなら是非とも叶えて差し上げたいと思いました。ですが、現在の疾風の状況をみるに、疾風総隊長として相応しい方はアラン団長を置いて他になく、周囲の賛同も得られませんでした。大勢の為に個が犠牲になるのは美談とされますが、私はそうは思いません。状況が許される限りは個を優先し、もしそれで問題が生じたならその時に対処すればよいだけのことのように思います。現在の勤務形態で、今のところ何ら支障はありません。寧ろ、以前より良い状態になったと、幹部の者達も…」
「それで?それぞれが自分の好きなようにして、それで収拾がつかなくなったらどうするつもりだ?ここは軍だぞ?お友達ごっこをする場じゃねぇんだ。」
それは至極真っ当な意見だったが、クロードはその意見の前提を指摘した。
「個を大事にすることと、収拾が付かなくなる事態になるということの間に、因果関係はありません。たとえ因果関係が成立したとしても、アラン団長でしたらそうなる前に手を打たれることでしょう。『仕方なく』と仰りながら完璧にこなされる方ですから。」
成る程、これは視点が違う。そして、相手の前提が『アランへの信頼』であることに気付かされ、アルベルはぐうの音も出なかった。
帰りの道中、アルベルはカレルを睨みつけた。
「ったくお前は、とんでもねぇ奴をアランに付けやがったな。」
「ふっふっふ♪楽しみでしょ?」
カレルのいたずらっぽい笑みにアルベルは舌打ちし、だが、
「…まあな。」
とぼそりと認めた。
(この男…アルベル様を封じ込めてしまった。)
アランは内心驚嘆した。あれだけ怒っていたアルベルが怒りをしずめ、しかも二人だけになった時、
「俺は、お前の気持ちをちゃんと聞いてなかったな。」
と、アランに謝ってきたのだ。そして、勤務時間の事も許してくれた。
アルベルに対して無礼なと思う一方で、良くやってくれたと褒めてしまいたい。だが、そんな事を言う訳にはいかない。アランはクロードに注意した。
「今回は私の事情であることもあって見過ごしましたが、今後、アルベル様に対してあのような無礼な発言は控えるように。」
すると、クロードはちょっと困った顔をした。
「申し訳ありません。」
殊勝に謝ったかと思いきや、そうではなかった。
「私にはどういう言葉が『無礼』になるか、わからないのです。『無礼な態度』に関しては、ある程度わかるのですが。」
「…何ですって?」
「いつも相手を怒らせてしまってからそれに気付くのです。同じ言葉が相手によって…いいえ、同じ相手でも時と場合によって心象がかわってしまいますので、こればかりはどうしても。」
確かに言葉とはそういうものではあるが、しかし、無礼がわからないなどと言った人間は初めてだ。
クロードは言い忘れたことを思い出したように付け加えた。
「一つとても気になったのですが、先ほどはどうしてアルベル・ノックス団長へのご発言をお止めになったのですか?」
「…それが何か?」
咎められてるように感じて、アランは不快感を示した。
「不思議に思って。」
「不思議?」
「ノックス団長に理解されたいと強く思ってらっしゃるご様子だったに、ご自分のお気持ちを伝えようとなさらなかったから、どうしてだろうと思ったのです。」
「…それを無礼というのです。」
「申し訳ありません。『それ』はどれを指しますか?」
アランは言っても無駄と感じ、
「…もう結構です。」
と、仕事へ戻れと手を振った。クロードは机に向かいかけて、
「それからもう一つ、驚いたのですが…」
と、振り返った。この男には驚かされてばかりだが、逆に驚くこともあるのかと思っていたら、こんな内容だった。
「私は『側近』だったのですね。雑用係だと思っていました。」
クロードはそう言って穏やかに笑った。