アーリグリフのアランの執務室から退出した部下達は、すぐさま頭を寄せ合って囁きあった。
「気付いたか?」
「ああ!」
「まさか団長が鼻歌を歌うなんて…!」
「何か良い事でもあったんだろうか?」
「さあ?今までそんなこと、一切感じさせなかった人なのにな。」
「あの方をそうさせるほどの事…一体なんだろう?」
「まさか、恋…とか?」
「お相手は?」
「やはり、クレア・ラーズバード様…?」
「クレア様はノックス団長との結婚が決まっているのだろう?」
「では、ネル・ゼルファー様…?」
「どちらにしてもお似合いだ。」
「ダンスも素晴らしかったしな。」
「しかし…何でも出来る方だと思っていたが、歌もお上手だとは…。」
「敵わないな…。」
『アラン、お前が好きだ』
その瞬間、完全に心臓を射抜かれた。
『アラン、お前が好きだ』
アルベルがそう言ってくれた。これ以上ないくらい顔を真っ赤にして。アランは書類を書いていた手を止めて、ジーンと目を瞑った。艶やかに色づいた肌、真紅の瞳、黄金と漆黒の髪…。深い赤のドレスに包まれたそれら全てが美しかった。
『アラン、お前が好きだ』
何度思い出しても、こんなに胸がドキドキする。
(ああ、いけない…。)
アランは再び仕事に取り掛かった。こんな調子では仕事が進まない。こんな仕事さっさと片付けて、一刻も早くアルベルの待つ愛の巣へ帰りたいのに。アランはアルベルのいる方向を見ようと、窓の外に目を向けた。世の中はこんなにも美しかったろうか。全てが輝いて見える。
(ああ、また…。集中しなければ。)
アランは書類に印を押そうとして、机の上に朱肉がないことに気付いた。印鑑を出しておきながら、朱肉を忘れるとは。引き出しから取り出そうとして、そこにあった写真入れに目が止まった。手にとって開く。そこに写っているのは勿論アルベル。
好き。好き。アルベルのことが好きで堪らない。
『アラン、お前が好きだ。』
つまり、アルベルも自分に対して同じ気持ちでいてくれているということ。
(なんという幸せ…!)
コンコン
ノックの音。現実に引き戻されたアランは、素早く写真を引き出しにしまった。
「およーございます。」
入ってきたのはカレル・シューインだった。
「これ、報告書です。あと、これは約束してたのの一部です。残りはもうちょっと時間を下さい。」
祭りが終わって昨日の今日だというのに、もう報告書を提出してきた。その上、『アルベル解体新書』の一部と暗号解読表まで。相変わらず仕事が速い。
『あいつにはまだ言うなよ。』
昨夜、ベッドで甘い余韻に浸っている時に、アルベルがアランにだけ打ち明けてくれたこと。それはアルベルの団長復帰。色々考えた末、そういう結論に至ったのだと、初めて自ら心の内を明かしてくれた。そして、結果的にカレルの思い通りになってしまうのが気に入らないのだとアルベルは言った。
『ヤツには散々ッ煮え湯を飲まされてきたからな。それ相応のお返しをくれてやる。』
カレルの何も知らぬその顔を見て優越感に浸りながら、アランは早速アルベルの計画を実行した。
「アルベル様を必ず団長に復帰させてみせる。…あなたはそう言いましたね?」
そう言ってカレルを睨みつけたが、カレルはそれに対して緊張を走らせる様子もなく、
「そうですね。」
と呑気に答えた。この男の慌てふためく様を見てみたいというアルベルの気持ちはよく分かる。アランはそう思いながら次の言葉を口にした。
「しかし今朝、アルベル様が団長どころか、軍を辞するつもりであると、私に打ち明けてこられました。」
「えっ!?」
これには流石のカレルも驚いたようだ。アランはそれを少々気分よく眺めた。
「王に正式に申し出ると仰るのを、何とか思いとどまって頂きました。これは一体どういうことですか?」
カレルは困ったようにポリポリと頭を掻いた。
「あー…。ちょっとやりすぎたんでしょうか…ねぇ?」
「やりすぎた?」
「俺に命令される事に相当イライラしてたから、計画的には結構上手く行ってると思ってたんですが、まさかそう来られるとは…。」
確かに上手くいったと言えるだろう。アルベルは団長復帰を口にした後、怒涛の如くカレルに対する不満をぶちまけていたから。しかし、何もかもこの男の思い通りになるのは面白くない。そのためには、この計画を上手く実行しなければならない。
「どうするのですか?」
まずは相手の出方を見ようとしたところが、カレルは予想外の一手を放ってきた。
「なら、俺も一緒にやめます。」
「…は?」
アルベルは、自分が軍を辞めると言えば、カレルはすぐさま謝りに来るだろうと言っていたのだが。
(アルベル様はどう思われるだろう?)
アランとしてはカレルが辞めようが全く構わないが、日頃のアルベルの、カレルを信頼しきった様子を思い浮かべると、これはアルベルにとって最悪の事態と思われる、という面白くない結論に至ってしまっていると、カレルが続けた。
「…そう言ったら、多分旦那は戻って来てくれると思います。」
「アルベル様が?あなたの為に?」
それは聞き捨てならないと、アランの声が尖る。カレルは苦笑して首を横にふった。
「いやいや、漆黒の為に、ですよ。あの人、俺がいないと漆黒はダメだと思い込んでるから。実際、ちっともそんなことないんですけどね。」
アルベルがそう思い込んでいるかどうかの真偽は置いておいて、実際カレルが抜けるのは相当な痛手なはずだ。
「それで戻って来て下さらなかったら…?」
「俺は本当に責任をとって辞めます。そしたら、旦那はきっと俺を引き戻しに来るでしょうから、そん時、『旦那が団長してくれなきゃ嫌だ』ってごねればいい。」
アランは不快感をあらわにカレルを睨んだ。アルベルが自分の為にそこまでしてくれると確信しているのが癪に障ったからだ。
「…あなたは、自分に余程の自信があるようですね。」
そうじゃありません、とカレルは笑った。
「旦那は俺が辞めたがってるの知ってますからね。絶対、そうはさせるか!って思うはずです。」
アルベルの事を知り尽くしたセリフも気に入らない。アランは指先でイライラと机を叩いた。
「そこまで問題を大きくする必要はないでしょう?あなたが頭を下げればいいだけのことではありませんか。」
すると、カレルはマジマジとアランの顔を見つめた。
「それで済みそうな雰囲気なんですか?」
しまった、勘付かれたか?アランはすぐにシラを切った。
「わかりません。ただ、アルベル様はお優しい方ですから、必死にお願いすればお気持ちを動かして下さるかもしれないと言っているのです。」
表情には出さなかったはずなのだが、カレルは何かを察したのか、ニッと笑って言った。
「じゃあ、早速謝りに行きます。旦那は今、自宅の方に?」
「…。」
アランは心の中で舌打ちした。謝れば済む問題であると勘付かれてしまったのだ。計画は失敗に終わってしまった。だが、結果的に頭を下げさる事ができればいいと結論付けた。ただし、自分がいない間に家に入られたくない。アランはしらっと嘘をついた。
「アルベル様は出かけておられます。夜には戻られると仰いました。」
「そうですか。じゃ、今夜伺います。」
カレルは軽い調子でそう言って、出て行った。
報告書を作るのに、二、三確認する事があったので、クレアはアランの部屋を訪れた。だが、部屋の主は留守だった。王との謁見中だと、留守を預かっていた疾風の兵士が教えてくれた。
「もうすぐ戻られると思います。ここでお待ちください。」
ソファを勧められたが、クレアはまた出直してくると辞退した。だが、
「本当に、もうすぐ戻られますから。今、お茶をお持ちします。」
と、兵士はお茶を入れに部屋を出て行ってしまった。
(いいと言ったのに…。)
いつもの気疲れに、クレアはそっと溜息を付いた。アランの仕事部屋。いつアランが戻ってくるかわからないこの状況に、なんだかそわそわする。アランが戻ってきた時に、ソファにどっかりと腰掛けているのはなんだかイヤだ。かといって、このまま突っ立っているのも変だし、何よりあちこち盗み見ていたのではないかと疑われたくはない。どこか、自然に立っていられる場所はないかと、クレアは部屋を見渡した。趣味のいい家具に、さり気なく飾られた花。部屋の主の性格を表すかのように、棚には本が整然と並び、机の上に置かれた物もピシッと整列して――
(あれは…。)
写真入れだった。いつもは必ず机の引き出しかアランの懐に収められているそれは、今は無防備に机の上に置き忘れられていた。クレアは、アランがそれを時折手にしては、優しい表情で眺めていたのを覚えていた。クレアの心の内にあるすべての疑問の答えがそこにある。クレアはドキドキしながらそっと机に近づいた。
普段だったらこんなことはしない。だが、これでこの苦しい恋にケリをつけられるという一心で、罪悪感にさいなまれつつも、それをそっと手に取った。
(綺麗…。)
そこにあったのは半裸体だった。そのあまりに芸術的な構図に、一瞬絵画かと思ってしまった。ややうつ伏せの横向きで、白く美しい背中に黒から金色がかった不思議な色の長い髪がさらりとかかり、真っ白なシーツになだらかな髪の流れを描いている。腰はシーツで隠されているが、その付け根からすらりと伸びた脚はむきだしで白く輝き、神が緻密に計算し尽くして造ったのかと思えるほどの完璧なラインに思わず目を奪われた。そしてその穏やかな寝顔―――
(アルベル・ノックス…。)
金槌で頭部を強打されたようなショック。クレアは震える手で写真入れを戻すと、逃げるように部屋を出た。
次の日、祭の事後処理を終えたクレアは、一時帰国することになった。ネルは次の任務の為、一足先に帰国している。またここに戻ってくるのだが、それでもクレアの為に多くの見送りが集まってきた。そこにカレルとアランの姿はない。カレルは今カルサアだ。けれど、アランは…。クレアはさり気なくアーリグリフ城に目をやった。しかし、アランの部屋の窓に人影はない。でも、よかった。アランの顔を見たらきっと動揺してしまっていた。
「クレア様、行っちゃうの?もう会えない?」
クレアを慕って、会うと必ずまとわり付いてきていた少女が半泣きで尋ねた。クレアは少女の前にしゃがんで微笑んだ。
「いいえ。また戻ってくるわ。」
「本当に?」
「ええ。約束。」
クレアは自分の胸に手を当てた。
「じゃ、指きり!」
少女に小指を突き出されて、クレアは戸惑った。
「指きり?」
「クレア様、知らないの?こうやってね、指きりげんまん♪嘘付いたらハリセンボンのーます♪指切った!…これで約束守らなきゃいけないんだよ?」
シーハーツとは違う約束の仕草。アーリグリフの者達が微笑ましく見守る中、クレアは少女と一緒に指きりの唄を歌った。
「道中、お気をつけて。」
「ええ、有難うございます。」
クレアは、ハロルドの差し出された手を借りて馬車に乗り込んだ。
ハロルドは以前と変わらず接してくれる。それが嬉しい。彼の事は嫌いではないから。
ルム車がゆっくりと動き出した。
「早く帰って来てね!」
『戻って来て』ではなく、『帰って来て』と言った少女の言葉にクレアはじんと胸が熱くなった。
かつては敵であった人間をこんなにもあたたかく受け容れてくれたアーリグリフの人々に、感謝を込めて頭を下げた。
アーリグリフ城がどんどん遠ざかっていく。それが見えなくなる前に、クレアはもう一度、窓を見上げた。